37人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ
§
さて、王殺しの下手人はどこへ逃げたのだろう。
柴垣宮の裏手には昼なお不気味に薄暗い森が広がり、里人も寄り付かぬ険しい登りの獣道をしばらく進めば、地名にならって倉橋川とも呼ばれる渓流が走っていた。そのほとりで悠然とそびえる巨大な老木の、てっぺんに程近い位置に生えた枝の上で、若い男が寝転んでいる。
「やっちまったな。今度ばかりはモノが違う」
気だるげなタメ息まじりに、ひとりごちる。
クセの強い生まれつきの赤毛が風に揺れ、長い前髪の間から、生気の輝きを宿さない黒目がちの双眸が覗く。
宮内で着た武官の服は、切り刻んで森に埋めた。
無論、もとの持ち主の体も一緒に、少し細工を施してから埋めた。刺客である男は神も仏も信じていないし、とむらいの心もないが、さすがに罪悪感を覚えていた。
今、男のしなやかな体を包み込むのは特殊な装束だ。ボロ切れをかき集めて無理やり服の体裁を保っている、というふうな不格好さで、色も形も不揃いな余った布があちこちから垂れ下がっていてまるでミノムシのごとしだが、これがなかなか機能的で本人は気に入っている。
ひとしごと終えたあとでここにやってきて眠るのは、東漢の駒という男にとって欠かせないルーティンだ。しかし今回に限って心のざわつきをうまく抑えられず、目が冴えてしまって、まったくもって寝つけやしない。自然の生命感にあふれた光景も、水のせせらぎと木々のざわめきが共に織りなす音色も、癒やしにはならない。
「おれもいよいよ、おしまいか」
駒は自らの運命を悟っていた。
さもありなん、大逆罪を犯した者に明日など来ない。どこへ逃げても必ず捕まり、即刻処刑に決まっている。
だが宮廷の捜索網など問題にならない。
仕事にはいつも手製の秘密道具を使う。頭の中に石が詰まっている武官連中が血眼になって調べたところで、下手人の素性にたどり着くことすらかなうまい。雲隠れするための時間なら、他ならぬ宮廷側が稼いでくれる。
したがって今、もっとも警戒すべきことは別にある。
「駒、大儀であったの」
妙に甘ったるい声が響き、思考を途切れさせる。
首だけ傾けて見下ろせば、巨木の根本に主人がいた。蘇我の馬子である。このような獣臭い山中に色鮮やかな朝服姿の貴人が訪れるなどと、ひどく不釣り合いな光景だが、この主従にとってここは重要な場所なのだった。
「珍しいこともあるもんだな。馬子サマが自分の道具をねぎらうなんて、槍でも降ってくるんですかねぇー?」
ダラダラと寝転んだままで木から降りようともせず、主人に対して敬意の欠片も感じられぬ態度で話す駒に、
「たまにはよいであろ。特別の獲物だったのじゃ」
馬子は華でも愛でるかのような微笑みを向ける。
したたかで気まぐれで考えが読めない主人のことを、駒は心底から恐れて、気味悪がって、苦手としていた。
「別に、おれ、いつも通り仕事しただけなんで。標的がどこのどなた様だろうと、結局、殺しは殺しでしょ?」
「そんなことはないな駒よ。安あがりな殺しと、そうでない殺しがある。こたびは、まこと高くついたぞ。偽の使者もわざわざ雇ったし、貢物にいたっては本物じゃ。ついでに、他の文官を抱き込むのも、骨が折れたしの」
「よく言うぜ。賊どもを雇ってたなんて、おれは聞いてねぇしよ。おかげで誤解して、余計な殺生しちまった」
「すべて必要な手順だったのじゃ。あやつらがオトリになって大王の精鋭部隊を引きつけてくれていなければ、汝はひとりであの人数とやり合って無駄死にしていた。それに、あれがあったからこそ汝は大王の信頼を得て、外に誘い出せもしたであろ。計算通りというわけじゃ」
よくもまァいけしゃあしゃあと、よどみなく歌うかのように語るものだと、駒は感心しすぎて吐き気がした。
「つーかあんたさ、こんなところに来てていいわけ? 王さんが死んだんだし、かなり忙しいんじゃねーの? 殯(特別な葬儀)の準備とかだって、長引くだろうに」
「殯はメンドイ。省略する。陵墓もテキトーでよかろ」
「ひっで。王さん、浮かばれねーぜ」
「そんなことより駒よ、ここは相も変わらず美しいな」
馬子はあまりにも唐突に話題を変え、遠い目となり、森の景色を眺めまわしてウロウロと木のまわりを歩く。
「ほれ、覚えておろう。シカ狩りの日に、初めて汝と」
「よせよ」
駒が語気を強めて、思い出話の続きをかき消す。
眼下にある馬子の背を、真っ黒な目で、睨めおろす。
「白々しい。薄ら寒ぃ。わかってるぜ? おれはもう」
「せっかちな男じゃな。別れを惜しむ間くらい与えい」
馬子が振り向く。その表情を視認する前に駒は跳ぶ。直後、短い槍が降ってきて、寝床にしていた枝を貫く。
天気予報は的中だ。駒は舌打ちをする。
隣の木に乗り移った時、聞き慣れた同僚の声が響く。
「馬子様、これをっ!」
木陰に潜んでいたソイツから長弓と矢筒を受け取り、馬子はそのまま流れるような動作で矢をつがえるなり、
「いざ然らば」
駒に向かって構えた弓を引き絞り、笑みを消す。
「馬子ォッ!」
こらえきれずに激情を爆発させて、駒は叫んだ。
解き放たれた矢が風を切り、頬をかすめてゆく。身をひねるのが一瞬でも遅ければ、眉間を射抜かれていた。
頬に開いた傷口の熱、くちびるへと伝う血の味を感じながら、すぐさま反転して再び跳ぶ。木から木へと飛び移って必死で逃れんともがく間にも、あちらこちらから無数の気配が続けざまに湧いて出て、追ってきていた。
みな駒と同じ東漢氏出身で蘇我氏の配下だ。
いっそ気持ちがいいほどに孤立無援の四面楚歌。
間違いなく歴史に残る任務を成功させた駒の存在は、大豪族の馬子にとって輝かしき経歴の汚点でしかない。口封じとして真っ先に狙われることは自明の理だった。だからもっとも立ち回りやすい森林を場所に選んだし、実を言うと任務を持ってこられた時点で準備していた。
背後まで迫ってきている追手をチラと見る。
もっとも近距離にいるのは投げ槍使いの変態であり、好都合なことに発破(爆弾)使いの変態も後続にいる。駒と同じく、山猿がそうするように木の枝伝いの跳躍を繰り返しながら、槍や発破を投てきして駒の足場を切り落としたりブッ飛ばしたりして、執念深くついてくる。
事前に連中の得手を調べておいてよかった。
それにもうすぐ目標地点に到達することだしな。
駒はニヤリと笑って振り向きざまに腕を振るう。
次の瞬間に槍野郎の首から赤いしぶきが噴き上がり、まき散らされて発破野郎の目をつぶす。うめいて怯んだ隙をつき、駒はソイツに飛びかかって、共に落ちゆく。
「死ィィィィねェェェェいッ!」
頭を掴んでガッチリ固定したうえで地面に叩きつけ、首を砕き折る。即死した発破野郎はやはり装束の裏地や背負っているカゴの中など、大好きな火薬を体じゅうに満載していたので、ありがたく有効利用させてもらう。
「あー! 捨て駒なんて笑えなさすぎて絶望だぜー!」
遠くにいる馬子に聞こえるよう大げさに叫びながら、懐から火打ち石を引っ張り出して景気よく打ち鳴らす。
「殺されるくらいならテメェで死んでやるっつーの! あばよ馬糞たれ馬子! 呪われやがれ! ド畜生ー!」
炎と光と衝撃が炸裂した。
§
黒煙は上空に溶けて去り、2つの黒焦げ死体が残る。周囲の土は掘り起こされており、爆発の威力を物語る。
「駒め、自決するとは案外と呆気のうござったな」
片方の死体の頭にへばりついていた赤毛をつまんで、安心しきっている様子の配下に対して馬子は断言した。
「あれは生きておる。逃げたのじゃ」
「はっ?」
「背格好の似た亡骸に自分の抜け毛をくっつけて、顔を焼いたくらいのことで我の目はごまかせぬぞ。さがせ」
「はっ!」
配下を追っ払ってひとりになると、馬子は空を仰ぐ。
「逃さぬぞ。汝は我のモノじゃ。
持ち駒を生かすも殺すも我でなければならぬのじゃ」
最初のコメントを投稿しよう!