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序:発生〜ビギニング〜
式典は、滞りなく進行しているかに見えた。
問題などあろうはずもなく、あってはならない。
その起こるはずのない何かに怯え続ける男がひとり、ここ倉橋(現代でいう奈良県・桜井市付近)に位置する柴垣宮の大広間に集まりし者たちの中にいた。金箔の壁紙で絢爛豪華に彩られた空間の最奥に座す、大和国の第32代君主・倉橋の大王(のちの崇峻天皇)である。
東国からの調(税として徴収する絹や麻製の織物)献上式は大和国の優位性を示す通例であるが、この場に大王を呼び寄せたるは大臣・蘇我の馬子。皇族と長らく密接にかかわってきた名門豪族・蘇我氏のエリートだ。しかし大王からみれば、補佐役という立場にありながら政治の実権を掌握して好き放題する厄介者でしかない。
抑制力がない限り蘇我はどこまでものさばるだろう。5年前には物部氏という強大なる対抗勢力があったが、馬子との本格的な武力衝突の末、表舞台から排斥されている。その戦いにおいて馬子は物部の頭目たる守屋と、守屋が次期君主として支持した穴穂部の皇子をもろとも抹殺せしめ、現在の大王たる泊瀬部の皇子を推薦した。
倉橋の大王自身、血縁上は馬子の甥にあたり、おじの活躍あればこそ即位できたわけだから面と向かって口を出せす、フラストレーションが日ごとにつのるばかり。しょせん自分など馬子の手で踊らされる傀儡に過ぎず、価値なしと見ればすぐ新品と交換されてしまうだろう。いくらでも替わりがいるのならば、何のための権威か。
かくして倉橋の大王はアンチ蘇我氏派の群臣を密かにかき集め、来るべき戦いの日に備えていたのであるが、まもなく万事整うというところで、この、本来の予定にないあからさまに危険な香りが漂う式典の開催である。
(もしや馬子め、勘付いたか?)
念のため周囲にも、大広間の戸を1枚隔てた向こう側にも、選りすぐりの将軍や近衛兵をひかえさせている。それでもなお不安の払拭にあたわぬ。壁際にチラと目をやれば、うやうやしくひれ伏す群臣たちの中に忌々しい馬子の顔をみとめたので思わず、ぎょっとしてしまう。
見目麗しく整い、妙な艶っぽさすら感じる長髪長身の男であった。40代も後半に差し掛かろうという年齢のはずが、肌は不自然なほどみずみずしく、下手をすればひとまわり以上も若い大王の方が老けて見えかねない。熟れた鬼灯のごとく紅いくちびるを真一文字に結んで、氷の宝玉じみた瞳を伏せがちなまぶたの下にひそめて、感情というものが読み取れない無機質な面持ちでいる。そんな馬子の放つ冷気にあてられ、大王は身震いした。
(いやでもまさか、ここで仕掛けてくるなんてことないよな? いくらなんでも、こんな衆目の中で)
「大王、ご覧くださいませ」
自らを呼ぶ声に向き直ると、正面に東国の使者たちがひざまずいている。
「我が国特産の望陀布でございます。お改めくだされ」
先頭の男が捧げ持つ麻の織物は、現代の技術でも再現困難な高級品であり、古来より特別な装飾として宮内や祭祀の場に用いられたという。その光沢に倉橋の大王は心奪われ、先程までの緊張感もたちまち忘れてしまう。
「おお、なんと美事な」
天の川の縮小版とも形容できそうな、眼前の魅惑的な輝きに触れたい衝動を御しきれず夢見心地で踏み出す。
その直後である。
おびただしい量の鮮血が舞い散り、御殿の床と純白の望陀布を赤まだらに染め上げたのは。
玉座の脇に控えていた武臣のひとりが、疾風のごとき速度で大王と使者の間に割り込んできて、大太刀による横薙ぎ一閃のもと使者の胴体を両断せしめたのである。
使者は声もなく倒れて、数度の痙攣ののち息絶える。神聖なる御所にあるまじき、白昼の刃傷劇であった。
「ひィッ……何事じゃ! 朕の前でかような狼藉、ゆ、許されると思うてか!」
震えおののく大王に武臣が歩み寄り、膝をつく。
「大王、恐れながら……刺客にございます。この者ども懐中に、小刀を忍ばせておりました」
「東国の蝦夷が朕の命を狙ったと申すのか?」
信じ難いことだが残りの使者たちを取り押さえさせたところ、証拠の得物が、床の上に次々と転がって出た。
「いいえ、こやつらの中に蝦夷はひとりもおりませぬ。それらしき訛りがなかったゆえ怪しんでおりましたが、おおかた身分を偽って潜り込んだ賊でございましょう。さ、ここにいては御身が危のうございますゆえ、奥へ」
武臣の導きに従って大広間を出る際、倉橋の大王は、これだけの騒ぎの渦中でも微動だにしない馬子を睨む。対して馬子の視線は大王でなく別の誰かに向いており、その口元には、いつしか妖しげな笑みが刻まれていた。
「恐れながらお急ぎくだされ! まだ、どこかに刺客が潜んでおるやもしれませぬゆえ! さぁさ、お早く!」
大王は武臣とふたりきりで渡り廊下を行く。
慣れているはずもない全力疾走によって息が切れる。脇に広がる風光明媚な中庭も今や灰色にしか見えない。
「や、あれは」
と、前を進んでいた武臣がとつぜん立ち止まる。
庭の方を向いて、鳥が飛ぶような勢いで腕を振るう。指を差す動作と似ていたので、大王もつられてそちらを向くが、何もない。いや、陽光を反射して回転しながら飛来してくる物体が、一瞬だけ視界のすみに映り込む。
直後、首筋を冷たいものが走ってゆく。
そしてその冷たさはただちに熱へと、すげかわった。堰を切ったかのような勢いで噴き出す、血液によって。
この鮮やかすぎる朱色が自らの首の傷口から出ていくものだと知る前に、倉橋の大王は崩れ落ち、絶命した。
§
「大王! ああ! 大王! お気を確かに!」
血だまりに沈むように伏せる主君の肩を揺すりつつ、武臣は妙にわざとらしい大声で呼びかけ続けていたが、
「よし、ちゃんと死んだな」
ふいに無表情となってつぶやくなり中庭に降り立つ。
そして山猿のごとく軽やかな動作で塀を駆けのぼり、
「誰か来てくれ! 大王が崩御りあそばされたぞー!」
またもいっそうわざとらしい叫びを張り上げてから、あっという間に塀の向こう側へと身を踊らせて消えた。
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