何か、いいことないかな

1/1
前へ
/1ページ
次へ
天満橋の駅の近くにあるカフェで、ジェラート・コン・カフェを目の前に、アイスクリームが、少し融けるのを待っている。 マリコは、甘いアイスクリームの後に残るエスプレッソの苦みが、最近のお気に入りだ。 ガラスの壁から、外を見ると、買い物客が、楽しそうに行き交っている。 そして、誰にも聞こえないぐらいの声で、「何か、いいことないかな。」と呟いてみた。 マリコは、介護の仕事をしているが、今日は休みで、ついさっきまで家にいたのである。 家にいたのではあるが、何か詰まらなくて、外に出たくなって、このカフェに来たのだ。 この半年ぐらいは、休みになると、同じパターンで、このジェラート・コン・カフェを食べに、このカフェに来ている。 家にいたって、何も起こらない。 いつもマリ子は、何かいいことないかなと、そればっかり考えている。 「何か、いいことないかな。」は、マリコの口癖だ。 でも、考えているだけじゃ、いいことは起こらないことぐらい、マリコでも解る。 なので、せめてもの、何かを求めて、天満橋まで出てくるのだ。 「あと9時間で、今日が終わっちゃう。」 また、何もいいことが起こらないうちに、今日が終わってしまうだろうと考えると、マリコは、焦りに似たイライラ感に憑りつかれてしまう。 あと、8時間45分、また何もいいことは起こらない1日になるね。 マリコは、腕時計を、また確認する。 そりゃ、何もしなければ、何も起こらないってことぐらい解っているわよ。 でも、何をしたらいいのか、それが解らないの。 っていうか、いいことって、そもそも何なのよ。 彼氏が出来ること? お金持ちになること? 友達に、ちやほやされること? うん、どれもいいことよね。 ああ、そんな風になりたいな。 でも、そんなことじゃない、いいことが欲しいのかもだよ。 それって、何なのかなあ。 何か、いいこと。 そういえば、向こうの席の男の人、すっごいカッコイイんじゃない。 なんで、あっちの席に座らなかったんだろう。 隣に座ってさ、何気なく、あたしが本を落としたりするわけよ。 んでもって、それを男の人が拾ってくれる。 ってさ、漫画でも、そんな単純なストーリーはないよね。 あれ、あの男の人、なんか、あたしのこと見てない? どうしよう。 やっぱり、見てるよ。 どうしよう。 あれ、立ち上がったよ。 え?あたしに向かって歩いて来てる? って、そんな期待させちゃダメじゃない、そのまま通り過ぎてレジに行っちゃったよ。 あーあ、また、今日も、何もいいことが起こらない1日なんだね。 そういえば、あの男の人、鉄道の雑誌抱えてたよね。 鉄ちゃんて訳なのかな。 そうだ、あたしも旅に出てみようかな。 だって、行動しなきゃ、あたしも、いいことに巡り合えないじゃない。 「題して、何か、いいことを探す旅だよ。」 そう言って、融けてしまったアイスクリームを、いっきに飲んだ。 そう決めたマリ子は、その次の月に休みを取って、JRに乗り込んでいた。 山陰線の城崎温泉駅まで来て、そこで途中下車。 1人で、外湯の温泉に浸かって旅情を感じていた。 「ひとり旅だよ。なかなか、あたしもやるじゃない。ああ、気持ちいいなあ。」 城崎温泉駅から鳥取方面に向けて列車に乗り込む。 ふと座った座席の前に、大学生らしい男の子が座っている。 時刻表を手に、これからの予定を考えているようだ。 「どこまで行くんですか。」 マリコは、男の子に声を掛けた。 普段なら、出来ない行動も、旅の途中なら出来てしまうのが、マリコ自身も不思議だった。 突然に声を掛けられて、戸惑った様子だったが、「取り敢えず、鳥取まで移動しようかと思っているんです。」と、小さな声で返した。 「ふうん。あたしも鳥取まで行こうかと思ってるのよ。そこで1泊して、明日、大阪に帰るつもりなの。ねえ、鳥取って、何か、いいところある?」 「いいえ、鳥取は、何もないです。何も無い街です。駅前も何も無いし、、、。」 「あははは、そんなに何も無いんだ。」 それから、2人は、色んなことを話した。 そして、同じ鳥取で降りて、同じホテルに泊まった。 もちろん、部屋は別々である。 そして、晩御飯も、一緒にホテル近くの居酒屋に行った。 ああ、楽しいな。 これが非日常ってやつよね。 隣には、弟みたいな可愛い男の子がいてさ、たわいもない話をしている。 これって、何か、いいことあったって事になるのかな。 なんて、マリコ自身に問いかけたが、酔いのせいか、答えは見つからなかった。 でも、ただ楽しい。 それは、本当だった。 「ねえ、楽しかったね。」 「ええ、今日は、ごちそうさまでした。」 ホテルまでの道、楽しい余韻に浸りながら、歩いていると、男の子が、ため息交じりに月に向かって吐き出すように言った。 「何か、いいことないかなあ。」 それを聞いて、マリコはびっくりした。 「ねえ、ちょっと待ちなさいよ。こんないい女が、あなたの横にいるのよ。それで、何かいいことないかなは、ちょっと失礼でしょ。」笑いながら、ツッコミを入れた。 「あーっ、ごめんなさい。勿論、お姉さんに会えたことは、いいことです。ホント、そうです。でも、何か、もっと違ういいことが欲しいんです。」 「そうかあ。それはちょっと解る気がするな。それでさ、その違ういいことって何なのよ。」 「それが解らないんです。でも、何か、いい事が欲しいんです。」 「お金とか、彼女とか?」 「ええ、でも、それもちょっと違うかな。何か解らないけれど、何か、いいことなんです。」 「贅沢な奴だな。」と答えたが、マリコの何かいいことも、同じようなものだ。 「でも、思うんですよね。その、何かいいことを見つけたとしても、また、その時は、その時で、何かいいことないかなって思うんじゃないかなって。人間の欲みたいなものじゃないですかね。この何かいいことないかなっていう気持ちは。というか、焦っているというか、自分自身の力の無さを、痛いほど感じちゃってるというか。自分で変えていく勇気がないから、いいことないかなと思うのかもしれないです。」 「ふうん。いろいろ考えてるんだね。でも、あたしも、毎日、何かいいことないかなって思ってるんだよね。実は、告白しちゃうとさ。だから、その何かいいことを探して、旅に出たっていう訳なのよ。ちょっと、恥ずかしい理由でしょ。」 「で、その度で、何かいいことに出会えました?」 「あははは。あなたに会えたことが、いいことでしょ。どうよ、こう答えるのが正解なのよ。」 「勉強になります。」 次の日、男の子は、山陰本線を西に向かって、まだ乗り継いでいくという。 マリコは、大阪に帰るので、鳥取で別れた。 そして、いつもの日常の生活に戻った。 仕事、仕事、仕事。そして、休日になると、また、何かいい事を探しにカフェに行く。 そんな旅に出る前と変わらない毎日が続いていた。 「あーあ、何かいいことないかな。」 そんな声が聞こえてきた。 マリコは、自分が呟いたんじゃないよねと確認しながら、周りを見たら、如何にも仕事が出来ますという感じのビジネススーツを着た40代の女性が、ため息をついていた。 ちょっとさあ、この女性なんて、自分で自分の道を切り開いて行けそうな、仕事も充実していて、いいことも、自分から探して取りに行くタイプに見えるんだけど。 「何か、いいことないかな。」 やっぱり、この女性が呟いている。 っていうかさ、あたし霊能力者? 急に、人のこころの声が聞こえるようになったのかな。 そう思うと試して見たくなって、他の人の言葉に耳を傾けてみる。 他人のこころの声が聞こえてくるってこと自体には、マリコは、おどろかなかった。 もう、定年を迎えて、悠々自適の男性からも聞こえてくる。 「何か、いいことないかな。」 いや、充分、いいことがあったように見えるけどなあ。 こっちからも、聞こえてくる。 「何か、いいことないかなあ。」 小さい子供を連れた若いお母さんだ。 こっちは、若い新入社員らしい男の子。 「何か、いいことないかなあ。」 そんな呟きに気が付いたら、もうその声しか聞こえない。 帰りの電車の中でも、あっちこっちから、聞こえてくる声。 「何か、いいことないかなあ。」 マリコは、そんなみんなの声を聞いて、ちょっと安心した。 自分だけじゃない。 みんなが、マリコと同じように、毎日毎日、何かいいことないかなあと思いながら、生活をしているのだ。 みんな苦しんでいるのだ。 みんな焦っているのだ。 そして、みんな「何か、いいことないかなあ。」と思っているのだ。 そう思うと、マリコは、少しだけ、楽になる気がした。 しかし、この他人の「何か、いいことないかな。」が聞こえるということは、初めの内はマリコ自身も、そうだよねと、同調できるので安心でもあった。 たが、毎日毎日、他人の声を聞いていると、その声が鬱陶しくなってくる。 その頃になると、こころの耳に蓋をしても、他人の声が聞こえてくるようになっていた。 目を閉じると、周りの「何か、いいことないかな。」が、そこここから聞こえてくる。 その声が、暫く目を閉じていると、大阪全体から聞こえてくるのだ。 大阪中の人、人、人が、こころの中で呟いている。 その声が、全国にから聞こえて来た。 北海道から、沖縄までの、人、人、人の「何か、いいことないかな。」が、マリコの耳に 聞こえてくる。 その声が、地球全体にまで及んだ時に、マリコは、突然に笑いだした。 「あははは。もう、どうなってるのよ。この地球は。というか、この人間という生き物はさ。みんな『何か、いいことないかな。』って呟いているよ。」 そう思った時に、何かを悟ったような気がした。 そんな声か聞こえるものだから、恋人が出来たって、その恋人の「何か、いいことないかなあ。」の呟きの声で、興醒めをしてしまう。 結局、結婚をしたくなくなってしまった。 そんな苦悩の人生が、終わろうとしている。 60年後の病院のベッドに寝ているマリコ。 滅多に顔を合わせない姪のリカがお見舞いに来ているということは、もう、あたし長くないって事だよね。 先生も看護婦さんも、そして、リカも、何かを待つようにマリコを見ている。 だから、もう死ぬって事でしょ。解ってるわよ。だから、放っておいてくれる。そんなね、いつ死ぬか、いつ死ぬか、なんて思われながら待っていられるのって、辛いもんだよ。 っていうかさ、そこの看護婦さんさ、今、何か、いいことないかなって思ったでしょ。聞こえたよ、こころの声がさ。 あははは、教えてあげようか。 あのね、いいことなんて無いよ。 絶対に、いいことなんて起きないから。 ああ、だんだん、意識がなくなっていくような気がする。 もう、そろそろなんだね。 「それにしてもさあ、何か、いいことないかな。」。 そう聞こえないぐらいの小さな声で呟いたら、静かに息を引き取った。 息を引き取る瞬間に、マリコは、この地球というものの発している波動を感じた気がした。 地球全体が、その中心部から、「何か、いいことないかな。」という波動を発しているんだ。 地球は、シューマン共鳴という、ある周波数で振動しているという。 その振動に、「何か、いいことないかな。」という地球の意識のようなものが重なり合っている。 周りにいる人が、みんな「何か、いいことないかな。」と感じているのは、その地球の「何か、いいことないかな。」に共鳴していたんだ。 どうも、屈折した天体じゃないか。 しかし、そんな事を考えたが、すぐにマリコの意識は、消えていった。 「ご臨終です。」先生が言った。 リカは、しばらく、マリコの顔を見ていたかと思うと、マリコに向かって、呟くように語りだした。 「マリコおばさんは、いいよね。仕事も順調でさ、海外旅行も何度も行ったし、ヨーロッパに10日間なんて、普通の人は、休みも取れないし、そんな旅行になんて行けないよ。結婚してないから子供もいないでしょ。子育ての苦労もしらないでしょ。自由気ままな人生だったね。ああ、いいなあ。あたしと全然違うよ。本当、おばさんは、いいことばかりの人生だったね。いいことを探す必要なんてなかったよね。むこうから自然にいいことがやって来る。羨ましいなあ」 リカは、先生と看護婦さんにお礼を言って、葬儀屋に連絡するために、病院を出た。 そして、青空に向かって、ヤケクソ気味に大きな声で叫んだ。 「あーっ、何か、いいことないかなーっ。」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加