言葉探し

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 まただ。また、受話器のむこうの言葉から意識が離れてきてしまっている。  一つ一つの言葉は、ちゃんと聞こえているんだ。「こっちは安くないを金を支払った」「どれだけ損させられたか」「それよりも貴重な時間を無駄にさせられた」「その態度はなんなんだ」「客を馬鹿にしているのか」。それらの言葉は音として聞き取れはするが、どういう意味を持っているのか、どのくらいの重さがある事柄なのか、相手の話が長くなればなるほど、わからなくなってくる。  そんなこんなでうっかり、相手が一秒も話を途切れさせないことにひたすら感心するばかりの状態に入っていた。 「ちょっと、聞いてるの?!」 「あ、はい。聞いてます」 「それなら、なんとか言いなさいよ!」  てっきり一方的に話していれば満足なのかと思っていた相手は、実はそうでもなかったらしい。動きがだいぶ鈍くなっていた頭の中で、手持ち少ない決まり文句のカードを並べ直す。  「大変申し訳ございません」「上の者にも報告いたします」「貴重なご意見ありがとうございます」「今後そのようなことがないよう努力いたします」「大変なご不便をおかけいたしました」……どれも相手を納得させるには明らかに役不足だった。しかし、他のカードを探す時間的余裕もない。諸々諦めて、手持ちの中から最も使い古したカードをひいた。 「大変申し訳ございません」 「あんた、そればっかりね」  知ってる。  そろそろ、むこうが例のカードを出してくる頃か?長い長い孤独な苦行から解放されるためには、出して欲しい気もする。だが、そのカードを出されたら最後、確実に課長から嫌味を言われるのだろう。「これぐらいのクレームに対処できないなんて、会社から給料もらって働いてる社会人といえるのかね」。そんな言葉を頂戴するのと和解の道が見えないクレーム対応を続けるのと、どちらがマシだろうかと考えた。  しかし迷ってみたところで結局、自分に選択権など与えられていないのだ。案の定、あがりのカードを絶対的強者の電話相手が切ってきた。 「あんたじゃ埒あかないから、上の人出してよ」 「いきなり降られたねー。天気予報で午後から怪しくなるとは聞いていたけど…」  カフェのテラス席から屋内へと避難した棚橋明歩(たなはしあきほ)は、パタパタとハンドタオルで手持ちのクラッチバッグを拭いた。 「嘉一(かいち)くんは?タオル、いる?」  奥山(おくやま)嘉一は明歩から差し出されたタオルを見て、自分のナイロン製ボディバッグを見た。水滴は付いているが、人の持ち物を余計に濡らすこともないだろう。 「いらない」  明歩は軽く頷くと、タオルをバッグにしまった。それを何とはなしに見届けた直後に、嘉一は思った。  「ありがとう」くらい言っておけば良かったかも。たとえば、「いいや。でも、ありがとう」とか。だが、そんな言葉を言うにはもうタイミングが遅すぎた。明歩の意識は彼氏にタオルを貸す貸さないから、とっくにレジ横のショーケースの中にある菓子へと移っていた。 「やっぱ、ブラウニー買おうかな。ちょっと買ってくるね」  二人席のテーブルに自分のコーヒーカップを置いて、明歩は店奥のレジカウンターの方に行ってしまった。取り残された嘉一は一人、席に着き明歩の残していったコーヒー越しに注文の列にならぶ彼女を眺めた。  さっきブラウニーを食べると言っていたのに、まだ決めきれないのかショーケースの他の菓子をまじまじと物色したり、天井から下がったボードのメニューをじぃっと注視したり。本来は退屈を持て余すような時間でさえ、彼女の場合は一人で楽しそうだ。  彼女がすぐ横にいる時には気にならないが、こうして離れた場所から明歩を観察するなどしていると、嘉一は疑問に思う。きっと一人でもじゅうぶん楽しみを見つけられる彼女が、どうして貴重な休みを自分のような退屈な男と過ごしているのだろうか。そんなことを思ったら、さっきまでそこそこ楽しかった筈が、もう明歩を見ているのが少し辛くなってきた。  嘉一は多くの人がそうするように、バッグからスマートフォンを取り出しSNSをチェックした。これといって大事な連絡も興味深い話題もない。ただ、人々が隙間の時間を潰すためにすることを、嘉一もしてみたまでだった。 「お待たせ」  さっきまで彼氏にささやかにだが嫉妬されていたとも知らない明歩が、ブラウニーの載ったトレイを持ち、ほくほく顔でテーブル席に戻って来た。座席に着いて早速にブラウニーを手にした明歩を、すぐに食べたかったのだなと思いながら見ていたら、彼女は二つに割ったブラウニーの片方を皿ごと嘉一に寄せてきた。 「はい、どうぞ」  嘉一はまたしても、いや、今度こそまずったなと思った。明歩がプラウニーが食べたいと口にした時に間髪入れず「買ってやる」と言えばよかった。自分がレジに並んで彼女に奢ってやればよかったのだ。しかし、これもまた、もう遅い。 「…いただきます」  こうなってしまえば、勧められたものを断らないことだけが精一杯の礼儀だった。 「映画始まるまで、あと三十分かぁ。このお店の中にも私たちと同じ映画観に行く人とか、いるかなぁ」  明歩は壁掛け時計を見上げた視線をそのまま下方に移動させ、自分の頭と平行の高さで店内を見回した。 「あの女の子二人組、それっぽくない?でも、若い子にだとアクションの方が人気だよね。あっちの夫婦らしき人は違いそうかなぁ。もし映画観るなら恋愛映画って感じじゃなさそう。社会派ドキュメンタリーとか?意識高そうな感じだし」  本当に明歩は、いつも楽しそうだ。常に興味が惹かれるものを見つけて、退屈を感じる暇なんかないのではないか。そして、絶え間なくよく喋る。大袈裟かもしれないが、自分と同じ種類の動物とは思えないくらいだ。  あ、これと似たこと、前にも思ったな。嘉一は急に、先日仕事中に受けた電話を思い出してしまった。 「私だってこんな電話したくないんだけどねそれでもどうしてこっちが電話かけなきゃならなかったかあんたにわかるわからないでしょうねどうせあんたなんにもわかってないんでしょただ電話に出て決まった時間が終われば帰ってそうやって給料もらってそれでいいって仕事にプライドなんてちっとも持ってないんでしょそういういい加減な態度でだれが被害者になるかってわかってる真面目に稼いだお金払ってやってるわたしたち客なのよ…」  あの人、なかなか凄かったな。ああいう人、クレーム付ける以外に他にもっと才能生かせる場があるんじゃないかな、なんて考えて、ああ、そんなことを考えてしまうからダメなんだよと思った。 「あの窓際の男の子、どうだろう?一人だけど、出演者のファンとかってあり得るよね」 「これくらい一人で処理してもらわないと」 「もう入ったばかりってわけでもないんだから」 「社会人としての自覚が足りな過ぎじゃない?」 「その齢で、いままでの仕事でなに学んできたの」 「あなたのフォローにばっかり時間とられてるわけにはいかないんだけど」 「あーあ、誰かさんのおかげで今日も残業だよ」  客からの電話だけでなく、上司から、同僚から言われた言葉まで甦り、責め立てられる。 「私だったら、好きな監督とか俳優とかの映画だったら一人でも普通に観に行くけど、男の人ってどうなんだろう?」  明歩が言っている言葉は耳には入ってきても、頭で噛み砕かれることはない。休日、彼女とデートしている最中に好きでもない仕事のことばかり思い出しているなんて、どうなんだろう。みんな、こんなものなのだろうか。  しかし、同じ職場で鬱々と働いていた同僚が、ある日を境に突然明るく覇気のある人物に変わったなんてことを、何度か目撃したことがある。その変化の要因は大体二つのうちのどちらかで、一つは今の職場を辞める目途がたったから、もう一つは彼氏彼女が出来たからだった。  後者の同僚たちは、愛しい恋人とのデート中に憂鬱な仕事のことなど微塵も思い出さなかっただろう。その点、自分はどうなのだろう。恋人である明歩と今まさに一緒にいるというに、他のことで頭がいっぱいで彼女に夢中にはなれていない。 「アクションならともかく、恋愛映画だとハードル高いかな。ねぇ、嘉一くんはどう?」  本当は、明歩のことをそれほど好きではないのかもしれない。告白してきたのが明歩からで、それを受けて付き合ってみようと思ったのも軽い気持ちからだったから、仕方がないのかもしれないけれど。 「嘉一くん?」 「あ、……」  ぼんやりとしていたカフェの景色に、ぎゅうっとピントが戻った。視界の中心にいるのは、明歩。 「……えっと、男からすると、好きな俳優目当てで恋愛映画を一人で観るのはハードルが高いのかってこと?さぁ、俺は特に好きな監督とか俳優とかいたことないから…」 「最近、仕事どう?」  明歩のする会話の特徴の一つに、唐突に話題が飛ぶことが含まれる。 「え、仕事?」 「そう。うまくいってる?」 「うまくいって…」  ない、と正直に言ってしまっていいものか。以前短いながらも付き合った女性に、仕事の愚痴をこぼした翌日に振られた経験もある。嘉一が改めて明歩を見ると彼女は口角を上げ、無言のまま返事を待っていた。話しても、いいか。彼女から聞いてきたのだから。 「あんまり、うまくいってないかな。昔からだけど全然上手くクレーム処理できてないし」 「あー、クレームね。ウチの店にもやっぱ来るよ。かなり激しく訴えに来るお客さん」  明歩は以前、嘉一と同じ派遣先のコールセンターで働いていた。二人はしばしの間同僚だったが、嘉一は契約を更新されず、明歩はそれと同じタイミングで惜しまれながら職場を去った。そうして今は、嘉一は他の会社でやはり電話対応要員として雇われ、明歩の方は友人と始めた輸入雑貨店の経営者となっている。 「言いに来るって、電話じゃなくて直接言いに来るんだ」 「そう」 「それって、結構修羅場だな。他の客が店に入ってこなくなるし」 「まぁね。でも、周りに同じ仕事してる人が沢山いるっていうのに、それでもそれぞれ一人で延々クレームの対応し続けなきゃいけないのも、それはそれで私は辛かったかなぁ」 「そっか…。あ、いっそ、スピーカーホンにして、みんなに聞かせちゃえば良かったのかも」 「でもそれって、みんながスピーカーにしちゃったら…」  明歩はフフと一人噴き出した。 「職場が地獄絵図と化すよね」  コールセンターに電話をかけてくる客たちは、怒り焦り戸惑い不満…そんな感情を電話にぶつけてくる。嘉一はこれまで対応してきた客との会話を思い出し、それらの音声が一遍に何件も部屋中に響き渡る光景を想像した。かなり殺伐とした、精神衛生に悪影響この上ない空間だ。不吉過ぎる想像に、明歩に遅れて嘉一も噴き出した。 「うん、ダメだな。この世に地獄を出現させちゃ」 「うん、ダメ。スピーカーホンは却下ね」  黒い笑いだが、口元が震え笑えてくるのが止まらない。自分の勤務中の苦しみが少し遠くに見えてきた。そうだ、きっと大したことはない。あれらはただの仕事中の出来事で、今は休日。今は今なのだ。  嘉一と同じくこみ上げてくる笑いを堪えようとしている明歩と目が合った。細められた、うっすら涙に潤む瞳。やさしくて、でも、それだけじゃない。とくべつ近くにいようとしてくれる人の、形。  嘉一は、なにかを彼女に伝えたくなった。ふいに口をほんの少し開けた嘉一に、明歩は首をかしげてみせた。また、待ってくれている。  伝えたい言葉は、「仕事の愚痴を聞いてくれてありがとう」?「一緒にいると楽しい」?「おかげで久し振りに笑った気がする」?どれも違う気がした。もっと今の彼女の笑顔を見て生まれた感情を、端的に伝えられる言葉がある筈だ。それは… 「好き…」 「え?」 「いや、好きだなぁと、思って…」  それ以上はどう続けて良いか、なにも思い浮かばなかった。言われた明歩の方はさっきまで笑んでいた顔をすっかりこわばらせ、うつむきコーヒーを啜り始めた。  また、間違えた。また言葉を間違えた。でも、なにがそこまで間違えだったのか。ただ、嘉一には明歩が「好き」と言われて迷惑だったらしいことだけは、痛いほど伝わってきた。 「うわーっ!!」  突然だ。明歩が叫んだかと思うと、自分の両手で顔を覆った。 「嘉一くんってば、え?いきなり何言ってんの!?うわーっ」  周りの席の客たちが二人の方を見た。ちょっと注意したくなるくらい、声が大き過ぎる。 「うわっ、でも、ありがとう……じゃ、ないよね?あの、その、」  明歩は急に声の音量を、すぐ目の前にいる嘉一が聞き取れるか聞き取れないかくらいにまで落とした。 「私も好き、です」  目や口やらの表情は分からなかった。だが、手で隠しきれていない顔面や耳の皮膚が紅潮しているのは、嘉一にもはっきり見てとれた。  あ、今、完全に仕事のこと、どうでもよくなった。
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