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「奈々子から電話があった。迎えに行ってくる。入れ違いになったら困るから、早紀子は家にいて」    いつもは端正に整った字を書く人なのに、その日のメモは空中で走り書きしたのかと思うほど斜めに急いだ母の文字だった。  私は母におとらず驚いて、つかの間息をするのも忘れて小さな紙片を凝視した。    奈々子から……電話?  本人から掛ってきたのか、父には連絡したのか、迎えに行くってどこへ。      方向音痴のペーパードライバーである母の、車での行動範囲は20分以内に点在するいくつかのスーパーとせいぜい遠出したって行き慣れた図書館くらいなのに。    それよりなにより、奈々子から電話があったという事実そのものに、私は腰が抜けそうだった。  とりあえず、持ったままだった通勤用のバッグをソファに置いて、洗面所に行きかけて、バッグからスマホを出してポケットに移した。  手を洗う間にも、母から着信があるかもしれない。  気もそぞろにうがいを済ませ、着替えるかどうか迷い始めたとき、玄関のインターホンがなった。    父が帰宅したのかもしれない。  鍵を持っていても、家人が在宅だと横着してインターホンを鳴らすのだ。 「お父さん?」  パタパタと廊下を走り、玄関の引き戸の前まで来てギクリとした。  すりガラスの向こうに立つシルエットは父ではなかった。  もっと小柄で黒っぽい。 「お姉ちゃん」  無邪気な声。  記憶にあるより少し幼いが、忘れたこともない妹の、懐かしい声。 「奈々子!?」  私はハダシで三和土に降りた。  心臓が痛いほど早打ちしている。  錠を開けるのももどかしく、戸を引き開けた。 「奈々子……あんた」  それきり、言葉が出てこない。  10年前、塾に行くと出て行ったきり、行方不明になっていた妹は、あの日この玄関を出て行った姿のまま、そこに立っていた。  少しクセのある髪は二本の細いおさげに編み、前髪は私があげた水玉のパッチン留めで斜めにまとめてある。   「お姉ちゃん」  奈々子は懐かしそうに玄関を見回し、私を見て嬉しそうに笑った。  片方だけ八重歯の覗くその笑い顔は紛れもなく妹の、奈々子の笑顔だった。 「奈々子~」  私は奈々子を抱き締めた。  細い体を包む重い冬の制服からは、湿った土のような匂いがした。  体を離すと、ポロポロと木屑のような繊維が手に残った。
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