(18)キスの後は朝食を

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(18)キスの後は朝食を

「言い訳はいいです。少しこちらを離れていただけでこんな事態になっていたとは…。何一つ報告が上がってきていないのは驚きましたね」 「しっ…しかし! 私はあまり騒ぎ立てるのは、お耳汚しになるかと……」 「言い訳はいらないと言いましたよね。セレスト、あなたは北の神殿に行ってください。許可があるまで長の座は降りてもらいます」 「くっ……っ……わ……分かりました」  頭の中に膜がかかっているようだ。もしくは水の中にいるように、辺りの音がぼんやりと聞こえてきた。  悔しそうな声が聞こえてあれは誰の声だったのかとぼんやり考えた。  水中を漂っているような感覚のまま、外に出なくてはという気持ちになり、水面に向かって手を伸ばした。 「ふふっ、寝ぼけているのですか?ずいぶん可愛らしい……」  最初に聞こえた声の主のようだが、先程まで心臓が凍りそうなくらい冷たい声だったのに、急にふわりと甘い声に変わった。  空気を掴むように動いていた手に誰かが触れて掴んできた。  しっとりと冷たいが優しい温かさは誰のものだろう。頭の中で疑問をふわふわと浮かべて遊んでいた。 「……それともまた、昨夜のように食べてあげましょうか」 「んっ……たべ……なに……?」  耳元で囁かれた言葉がやけにリアルで、意識が急速に浮上した私はうっすらと目を開いた。  すると、視界いっぱいに見知らぬ男の顔があって、驚いて変な声を上げて叫びそうになって慌てて飛び起きた。 「うわぁ!! なっ…何!? 誰!? ここっここは…」 「おはようございます。ここは私の私室です。色々とお話があるでしょうから。こちらで休んでいただきました」  目の前の男は上品に口元を上げて、にっこりと優雅に微笑んだ。慣れた様子という表現が頭に浮かんだ。普段からよく笑っているのかもしれない。  腰までありそうな白銀の長い髪が朝日に透けてキラキラと輝いている。  ここの人たちの制服のようなシンプルな白い長衣も、この男が着ていると神の装いのように荘厳に見える。  そして目の前に浮かんだ、緑と青のオッドアイを見たら、下腹部がきゅっと締まるような体に未知の感覚が起こった。 「おや、真っ赤な顔をして……早速朝から誘ってくれるのですか?」 「えっ……? その、あ…あなたは誰? 何ですか…これはいったい……」  ここでやっと周りを見渡した。壁面に立派な装飾が施されただだっ広い部屋にある大きくて豪華なベッドの上、どうやら私はここで寝ていたようだ。昨夜は確か……と思い出そうとしたらありえない光景が頭に浮かんできた。 「……冷たいですね、アリサ」  男は膝を折って私の前に座ってたが、そのままぐいっと顔を近づけてきた。 「昨夜はこうして……私と熱い口付けを交わしたのだというのに……」 「わぁぁぁぁーーーー!!」  私は口を押さえてベッドの奥に転がるように後退りした。  そうなのだ。  魔力過多で朦朧としているところに登場したこの男に、私はありえない台詞を吐いて助けを求めた。  チラリと見えた口元に光る牙はオールドブラッドの象徴、つまり私の魔力を吸い取ることができると無意識で判断した。  緊急的な措置で私からお願いした立場なので怒ったり責めることなどできない。  私は会ったばかりの人と、熱い…口付けを……記憶が曖昧だが、すごく熱すぎたような、もうこれ以上思い出すのも恥ずかしくて両手で顔を覆った。 「す…すみません、初対面の方に、あ…あんなことを……」 「ええ、本当に驚きました。いきなりアリサは私の頭を掴んできて、口を合わせたと思ったら…いきなり舌を入れて私の舌に絡ませてきて……」 「う…ううっ!? 私……そんな!! おおお願いです。失礼すぎると思いますが……どうか…全部忘れてください……」  顔を覆ったままベッドの上で恥ずかしさに悶えていたら、大きなベッドがぎしぎしと揺れる感覚がした。 「それは困りましたね……。昨夜はあなたに魔力を注がれて、今朝になっても収まりがつかなくて、アリサが起きたら一緒に…と思っていたのですが……」  一緒にというのはどういうことだろう。朝食でも一緒にとるつもりなのだろうか。  神秘的な外見はとても上品に見えるのに、言っていることが訳が分からない。この世界のジョークみたいなものなのだろうか。 「一緒に…とは?朝食ですか?」 「なんと…アリサは焦らすタイプの方でしたか。魔性ですね……」 「はい!?」  聞き捨てならない台詞にパッと手を外して目を開けると、またまた目の前にはあの男いて私を見下ろしながら妖しげな微笑みを浮かべていた。  これはどういう状況なのか飲み込まなかったが、次の瞬間私はベッドに転がっていて男が上から覆い被さっていることに気づいた。 「なっなんで! これは……いったい……」  男の口元に先程まで出ていなかった白くて鋭い牙が出ているのが見えてしまった。  私の目はそこに釘付けになってしまう。  あれに…あれに噛まれたらどんなに気持ちいいのだろう。  そんなありえない考えが頭に浮かんだ時、トントンとドアを叩く音が聞こえた。  男はお構いなしに私の顔に触れてきたが、今度はドンドンという大きな音に変わった。 「はぁ……いいところで。仕方ありませんね」  頭を押さえた男はため息をつきながら、私から離れてベッドから降りてくれた。  ホッとしながら見つめていると、男はどうぞと言ってドアに近づいて行った。  ガチャリと音がしてドアが開いて、一人の背の高い男が部屋に入ってきた。  深海のような濃い青の髪で立派な体躯をしていて、いかつい顔をしているが、その目元は困ったように細められて眉が下がっていた。 「何度も申し訳ございません。どうか私のためだと思ってお願いします。昨夜帰って来られたと聞いてから、みなさんお待ちなんですよ。まだかまだかと何度言われたか……」 「はぁ…一息つく暇もありませんね。セレストの件もありますからね、一度キツめに言っておきましょうか」 「何でもいいです。とにかくお顔さえ見せて頂ければ……んっ……んんん!? あっ…あの…ベッドの上の…あの女性はいっ…いったい……!!」  侍従なのか、強面だが下がった眉の困り顔がよく似合っている男だった。私を見つけると、大口を開けてダラダラと汗を流して震えだした。 「ああ、彼女はアリサです。昨夜は二人で熱い夜を……」 「えええ!?」 「ええっっ!!」  侍従と思わしき男と私が驚いた声が重なってしまった。 「間違えました。これからヤろうとしているところでした」  困り顔の男はうぉぉと叫んで天を仰いで崩れ落ちた。まさか上品のかたまりみたいな人から、満面の笑みでそんな台詞が出てくるとは思わなくて、私はポカンと口を開けて頭が真っ白になった。 「お願いですお願いです! どうかお戯れはやめてしっかりとお務めの方をお願いします」 「まったく…相変わらずランドは冗談が通じませんね。私はこのままで向かいますので。いい機会ですから、アリサの支度が終わったら会議の部屋に連れてきてください」 「え?あっ…はい……」  先程までとぼけた態度だったのに、銀髪の男は急に態度を変えて表情をなくした顔になった。 「では、アリサ。後ほどお会いしましょう」  侍従らしき男が慌てた様子でドアを開けると、音もなくスッと消えるように部屋から出て行ってしまった。  私は返事もできず口を開けたまま固まっていて、侍従の男があのぉ…と申し訳なさそうに声をかけてきてやっと我に返った。 「初めまして。私はヨハネス様の側仕えをしておりますランドと申します。ええと…あなたはアリサ様ですよね。もしかして……」  ランドと名乗った男は、ぱっと見は体格が大きくていかつい顔なので、年上に思えたがよく見ると顔にはまだ幼さが残っていた。  もしかしたら同じ年くらいかもしれない。 「は…はい。初めまして。アリサ・ハトです。こちらでは転移者としてお世話になっています」  どうも初めましてでお互い頭を下げて挨拶すると気まずい沈黙が流れた。  ランドの目線に促されたように感じて、私は慌てて説明をするために口を開いた。 「昨夜は…その、部屋を出たら道に迷ってしまい…、途中で気分が悪くなりまして…先程の方に助けていただいた…という事でして…気を失ったらしくベッドをお借りしたようです。…はい」  私のぼろぼろの説明で納得できないのか、ランドはうーんと唸るような声を上げた。 「あの、ところで先程の方は…、どういった方なのですか?」 「どう…と言いますと……。あの方は……、神殿の最高職で女神イシスの声を唯一聞けるお方です。神から授かりし瞳を持った光の如き存在、我々の命と呼ぶに相応しいお方、ヨハネス聖下です。……まさか……ご存知なかったのですか?」  今日一番の気まずい沈黙が流れた。  昨夜のおかげで頭はスッキリとしていて、自分の状況がこれでもかというくらいよく頭に入ってきた。  この神殿の誰もが崇拝する人に私が何をしたのか。  それを知られたら生きては帰れない気がして、背中を這ってきた寒気に震えたのだった。  □□□
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