(23)嵐の予感

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(23)嵐の予感

 真っ赤な血が床に広がっている。  その上を歩いていくと自分の足跡も赤く染まっていった。  どこから間違えたのだろう。  私はそう考えながら、自分の頬に熱いものが流れていくのを感じていた。  いくら泣いても涙を拭ってくれる人はもういない。  ただ愛してしまった。  それがこんな悲劇になってしまったのか。  同じグラスに同じだけの愛を。  あの時、なぜ私は何も考えずにただ頷いてしまったのだろうか。  愛してしまったゆえに、失うことを恐れた。  求められることが幸せだと感じていた。  嫉妬の眼差しを受ける度にもっともっとと際限なく渇望してしまった。  そう、私の態度が少しずつ彼らの心臓を抉るように傷つけていたのだとしたら、これは私の罪なのだろう。  もう一生誰も愛することはできない。  そして愛した人達を思いながら、彼らが残してくれたくだらないこの世界のために、身を捧げることもまた、罪だ。  いつかこの罪から逃れる日が来たら、そんな日が来たなら……私は今度こそ間違った選択をしない。  もし私を愛してくれる人に出会えたら、同じ分だけの愛を返して大切にしたい。  それが……それが私の願い。  次に生まれ変わったらきっと、私は……。 「アリサ様」  恒例の授業中、机に向かって本を開いたまま、物思いに耽っていたので名前が呼ばれていたことに気がつかなかった。  レナリア神官に勧められた本を読んでいたのに、ちっとも頭に入って来なかった。  それどころか眠ってしまったようで、なんだかよく分からない夢を見ていた気がする。  目の前で居眠りとは失礼過ぎなので、申し上げないと謝った私にレナリアは優しく微笑んでくれた。 「大丈夫ですか?調子が悪いのかしら?」 「いっ…いえ! それは全然! とてもよく眠れていますし食欲もあって元気です」  ヨハネスの部屋で初めて吸血を伴う行為を行ってから一週間。  調子はすこぶる良かった。  とにかく体が軽いし頭もスッキリしていて、走り回りたいくらいの元気がある。  あの夜以降ヨハネスは、同じような行為をして吸血してくるようになった。  同じ人間が立て続けに吸血するのはよくないと聞いていたが、ヨハネスの場合はもともと自身も白魔力を作り出せる体質で、多少の耐性があるのだそうだ。  目覚めたばかりの私の白魔力は効果も弱いので、まったく負担にならない、むしろ夢中になり過ぎて困ると本当かどうかよく分からないことを言ってヨハネスは笑っていた。 「あら、よかった。それじゃ、本は来週までにゆっくり読んでみてね」 「はい……。ん? 来週ですか? 明日は?」 「三日後、いよいよ聖女様がこちらにいらっしゃるそうよ。これから神殿内は準備で大忙しになるわ」  聖女という言葉に、私の背中はスッと冷えていき早くも緊張で胸が苦しくなった。  来るとは聞かされていたので、それは驚くことではないのだが、セイラの登場はやけに私の胸を不安にさせるのだ。  よく分からない怒りをぶつけられて、敵意を向けられていたことを思い出すと嫌な予感しかしない。  聖女として華々しくイシスの神殿に凱旋するようなものだろう。  私のことなど、もはやどうでもいいと構うことなく存在すら気にかけることもないかもしれない。それならそれでいいのだが、問題はミルドレッドの力を受け継いだことを、皇家に知られてしまうかもしれないことだ。  エルジョーカーが危険な動きを見せる中、どう使われるか分からない。  スパイのように送り込まれるか、売り飛ばされるか、それとも不吉だと殺されるか。  今のところ、生きるための解決策はできて、とりあえずは稼働している。変に公になってどういった立場になるのか分からないのが恐ろしかった。  私がヨハネスの部屋に移ったことを心良く思わない者はたくさんいる。ミルドレッドの力は限られた者しか知らないが、聖下がひとりの転移者を保護するように囲っている明らかにおかしい事態に皇家は必ず探りを入れてくるだろう。  知られるのも時間の問題かもしれない。  元宮廷魔導士のベルトランが守護者になった女で、聖下の部屋に出入りしているとなれば注視されるのは当然だ。  いや、もうすでに連絡が入っているかもしれない。  ここのところ、知らない神官が探るように見てくるのに気づいていた。  声をかけようとするとスッと消えるようにいなくなる。まるで警告のように思えた。  エドワードやランスロットがまた来てくれるかもしれないが、彼らは帝国の騎士であり、皇帝の命令に従わなければいけない。  もし不利な要求をされたり、不当な扱いを受けることになっても、二人が動くのは難しいだろう。それに…ベルトランはいまだ眠ったまま変わらない。ヨハネスは祭事をとりおこなう責任者であるから、私のことになど構っていられない。  嫌な予感しかしなくて、私は頭を抱えてため息をついたのだった。 「っっ……あっ……」  容赦なく私の肌に食い込む二本の牙が、全て食い尽くそうと重く揺れる度に、快感と愉悦に浸りながら溶けてしまいそうだった。 「も…だ……め……、また……」  首筋に噛みつかれて、長い指が私の蜜壺をかき回すように動く。  たまらない快感におかしくなりそうだったが、満たされているはずなのに、私はまだそれ以上の何かを求めてヨハネスの指を締め付けてしまった。  ぐっと深く牙が肉に食い込んで、じゅるじゅると音を立てて吸われたら、たまらず私はもう、何度目か分からない絶頂にあられもない声を上げて達した。  私のお腹に自身を擦り付けていたヨハネスもまたぶるぶると身を震わせて、飛び散った白濁が私の胸を濡らした。  ずるっと牙が抜けていく感覚もまた、たまらない。思わず濃い息を吐いたら、そこに口付けられてしまった。  錆臭い血の味がして、うっとこみ上げてきたが、ヨハネスは構わず深く舌を絡ませてくる。 「ううっ…はぁ……」  ぴちゃぴちゃと名残惜しそうに唇を舐められてヨハネスの唇がやっと離れていくと、目の焦点すら合わないくらい頭も体も力が入らなくなっていた。 「アリサ…今日も美味しかったです」  ヨハネスは満足そうに自分の口の周りについた残り血をペロリと舐めていた。  私は本当に食べ尽くされた残骸のようだ。  ヨハネスはその残骸の髪を愛しそうに手に取って口付けた。 「すみません。しばらく飲めなくなると思ったら、抑えが効きませんでした。まるで子供ですね……これでは……」 「明日、聖女様のご一行がいらっしゃいますから、お忙しくなりそうですね」 「ええ…、三日三晩、イシスの祝福の言葉を聞くために、神殿の奥間にこもって祈りを捧げなくてはいけません。せめて一日くらいにして欲しいです」  ため息をつきながら私の隣に寝転んだヨハネスを見て、クスクスと笑ってしまった。 「いいのですか?ヨハネス様がそんなことを言って。みんなハリきって支度していますよ」 「他の者はいいのですよ。私だけ一睡もできないのですから……。でもまぁ…今回は、アリサの力をたくさんもらったので、一週間だって起きていられるくらい元気です」 「あっ…ちょっ……」  ヨハネスは先ほどまで噛んでいた、私の首筋の吸血痕をベロリと舐めた。  そんなわずかな刺激にも私の体は反応してしまうから困ったものだ。  私の回復力は高くて、この痕も翌日には薄くなり、次の日には元に戻る。  ヨハネスはこの自分でつけた痕が好きらしく、人のいないところで何度も確認するように舐めてくるので、いい加減怒った方がいいのかもしれない。 「いいですか、私がこもっている間は、アリサはここから決して外へは出ないように。何かあればすぐランドを呼んでください」 「はい。分かりました」 「聖女セイラの話を聞きました。間違いなく、皇家はアリサに関心を持っていると思います」 「え?」 「大丈夫。私に考えがありますので。任せてください」  二つの色を輝かせて、ヨハネスは髪をかき上げながらニヤリと笑った。上品なルックスに似合わない怪しげな笑顔にゾクリと体が反応してしまう。  次から次へと知らないことを覚えさせられて、私の体はどんどん反応するようになってしまった。そして、熱くなった下半身は何かを欲しがるように蜜を垂らしてシーツを濡らしていた。  ヨハネスは自分のものを私の中に収めることはしない。私にだって一応良心はあるとか変な冗談みたいなことを言って、それ以上は求められないのだ。  それはきっと、ベルトランのことを言っているのだと思われるが、二人の間に何があるのか、知ってしまうのと戻れないように感じて私はその先に触れることができなかった。  神殿へと続く長い一本道。  聖なる道と名付けられたそこを、聖女参拝の一行がゆっくりと歩いていくのが見えた。  白と黒の騎士団から選ばれた、白百合と呼ばれる聖女専属の騎士団が、先頭にズラリと並んで歩いていく。  その後ろを黄金の飾りをつけた馬と黄金の馬車が続いていて、その中にセイラと皇子が乗っているのだと思われる。  そしてその後ろに皇子の騎士団が続いていて、長い長い行列になっていた。  その様子を私は聖なる道が一望できるヨハネスの部屋から見下ろして眺めていた。本来なら私も他の神殿関係者とともに、下に降りて頭を地面に付けて一行が過ぎるのを待つはずだった。  神官達もそうするべきだと口々に言い出したが、ヨハネスが一喝して、部屋から眺めることになった。  この後、神殿に入った聖女は女神イシスを讃える儀式を行った後、信託が下るまで祈り続けるのだ。  ヨハネスには何か考えがあるらしいが、私は不安でたまらなかった。  こんな時、そばにいて欲しくてベルトランの姿をつい探してしまう。  聖女参拝は予定より三週間も遅れていた。そしてベルトランが眠り続けて、ひと月が経とうとしていた。  神官達に拍手で迎えられながら、黄金の馬車が神殿の敷地に入っていくのを、いつまでも眺めていた。  □□□
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