第15章 彼の選択

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第15章 彼の選択

わたしは茅乃さんのことを甘く見過ぎていた。 ふわふわと幸せだった年末年始が終わってしばらくの時を経た一月の下旬。いつも通り目を覚ましてキッチンに下りていったわたしはそこに見出した光景にしょぼついていた眼を思わず見張ることになった。 「…あ、眞珂ちゃん。よかった、起きてきてくれて。ちょっと、お手伝いお願い。そこに用意しといた朝ごはん適当に食べたら申し訳ないけど。ダイニングのお掃除頼んでもいい?」 わたしがここに来てから目にしたこともない、博物館ものじゃないの?ってくらい高級そうな茶器や食器がテーブルの上にずらりと並べられてきれいに洗い清められている。きっと普段使わないから奥にしまわれっ放しになってたのを慌てて引きずり出してきたんだろう。 「ダイニング…、何かあるんですか?今日これから」 嫌な、予感。 ここのダイニングルームはいわゆる洋館ではよく見られるタイプの、ずらーっと長いテーブルに背もたれの高い椅子が並ぶ、端っこから反対の端まで声が届かないだろってよく揶揄されるやつ。先々代くらいまでは能條家のご家族はそこでお食事をされてたという話だが、今ではみんな使用人が使っていた普通の家庭用サイズのダイニングテーブルで食事をしている。 まあそもそもわたしも茅乃さんや澤野さん、常世田さんもここの従業員であって家族じゃないし。唯一の能條家の子孫は大概自室で食事を済ますから、どのみち現在はそこを使うべき人がいない。 わたしが来てからは見たことがないけど、高貴なご身分のお客様がいらっしゃるときなんかはそこを開けて使用することもある、と聞かされてはいた。だけど前もって何も聞かされていなかったけど、そんな特別なお客様が来るなんて予定。一体急に、何? 澤野さんは何故か一瞬言葉に詰まったように見えたが、ふと気持ちを切り替えたって態度で手を止めずにてきぱきとわたしに説明した。 「急な話で、わたしも今朝聞いたんだけど。お見合いなのよ、今日これから。このお屋敷で、柘彦さんの」 「え」 さすがにわたしはぽかんとなって、手にした布巾をはたりと床に取り落とした。 …あの策士!やりやがったな。 いくら事前に周知したら本人に逃げられるかも、と危惧したからと言っても。澤野さんにまで相談なしでセッティングするとか無謀すぎる。それじゃ、ろくに支度もできないじゃん! 「急で済む話ですか。お食事お出しするんでしょう。メニュー決めるんだって大変なのに、そんな。…わたし、今から買い出し行きましょうか?」 一応何とかぎりぎり免許は取れた。だけど正直あんまり運転、一人じゃ自信ないけど…。こんな局面で呑気に引っ込んでるってわけにいかないし。 柘彦さんが今何をどう感じてるか、とかちらと頭をよぎったけどとにかくいろいろと余裕がない。そりゃいくら冷静で物事に動じない彼でもこの青天の霹靂には驚愕するだろうが。ひと言も喋らないし愛想も振りまく気はない、と言い切ったあの時の言葉を今は信じるしかない。 澤野さんは繊細でいかにも高価そうな陶器をきれいな布巾できゅっきゅっ、と音が出るくらい丁寧に磨きながら首を横に振った。 「お料理は心配要らないの。さすがに今朝いきなり言われてフルコース、能條家の名に恥じない完璧なメニューを仕上げるのはわたしでも無理よ。ちゃんと事前にケータリングサービスを頼んであるらしいわ。そんなわけでプロのシェフが派遣されてきてこのあとここを使う予定なんだけど。食器はこの家に代々引き継がれたものを使うし、ダイニングルームはずっと使われてなくて埃を被ってるから…。とりあえず、ここにお客様を入れられる状態にするだけでも手一杯よ。協力お願い、眞珂ちゃん」 「それは。…もちろんお手伝いします。が」 彼を逃がさないために、実際にここまでやるのかぁ。と何とも言えない複雑な気持ちになった。その気分が返答に滲んでいたのをどう受け止められたのか。澤野さんはキッチン用除菌アルコールを渡そうと手を伸ばしかけてふと慰めるような色を目に浮かべ、声に出してわたしを励ました。 「大丈夫よきっと、心配しなくても。ここまで強引にお見合いを無理に仕組んでも、結果上首尾にいく可能性はそれほどないと思うわ。先方がどこまでこのお話に乗り気かはわからないけど。少なくとも柘彦さんの方は今はそんなご気分じゃないでしょうし。結局はお断りすることになるんじゃないかしら。…、と」 キッチンにせかせかと入ってきた人物を目の当たりにして澤野さんは素早く余計な口を噤んだ。わたしもそちらに目をやり、思わず小さく肩をすぼめる。今回の騒ぎを引き起こした張本人だ。 茅乃さんの耳には今の澤野さんの台詞は全然届いていなかったみたいで、全くわたしたちの会話の流れに気づく風もなくテンションの上がった様子でぐるりとわたしたちを見回す。ほんと、こういうときわかりやすく張り切って活き活きするなぁ。と半ば呆れながら、どうして澤野さんはさっき、この縁談が多分成立しない。と伝えることがわたしへの励ましになると考えたんだろ、とぼんやり思いを巡らせていた。
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