第15章 彼の選択

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あれは。そういう意味だったのか…。 「僕がどうなろうとあなたを二度と路頭に迷わせるようなことには絶対にしません。安心してここで今まで通り働きながら、ゆっくり将来のことを決めて下さい」 ノマドをそっと床に下ろして席を立ち、ドリップの終わったコーヒーマシンの方へと再び向かう。わたしはその背中に思わず短い言葉をぶつけた。 「…何で?」 自分でも何を訊きたかったのかよくわからない。ただ込み上げてきた感情がそのまま喉から飛び出ただけのような気もする。 ポットに伸ばした手を一瞬止めた彼に、背後からこれまで訊けなかった問いを思いきって投げつけた。 「…前に、お見合いの話をしたときには。今度の縁談は受けない、断るって言ってました。何が変わったの?あの人が綺麗で活き活きしてて、眩しかったから?…それならそれで全然いいんです。誰かを好きになるのは、きっと素敵なことだと思うから。…だけど」 もし。…そうじゃないとしたら? わたしの問いたいことが一発で伝わったのがわかった。湯気の立つポットを手にしてこちらに戻ってくる彼の瞳は薄暗い曇ったガラス玉みたいに見えた。 わたしの前に置かれたカップに漆黒の熱い液体が注がれていくさまを、どこか遠いものみたいにただ眺めていた。 「…結婚するのに好きとか嫌いとかの感情は必要ありません。それは先方も同じですから」 コーヒーを注ぐ音に紛れるようにぽつりと呟いた。…やっぱり。 好きになったから。特別な思いを抱いたから、あの人と結婚しようって。決めたわけじゃないんだ。 それに、その上。呉羽さんが彼のことを好きなんじゃない、もしかしたらこのお屋敷と能條家の社会的地位が目当てで結婚するんだってことさえ。既にとっくに知ってたのかもしれない。 「…今回のお見合いで出会った同士がたまたまそういう組み合わせだっただけでしょ。何も惹かれ合わない同士でわざわざ結婚する必要どこにもないじゃないですか。百歩譲って先方は柘彦さんと入籍することでいろいろと得られるものがあるのかもしれないけど。柘彦さんが彼女と結婚する意義って何ですか?特別好意を抱いてるわけでもないのなら。あえてよく知らない相手と一緒になって、ここでの暮らしを窮屈にする意味なんてない、って。…思うけど」 愛のない結婚をわざわざ選び取るなんて馬鹿げてる。伴侶を得る必要に迫られてない、誰とでもいいからどうしても子孫を残さなきゃならない縛りでもないならなおさら。 気がついたら燃えるような目を彼にまっすぐ向けていた。彼がさり気なく目線を逸らし、斜め下の床に興味深いものでも落ちてるような態度を取り始めて初めてそのことを自覚した。 「…あなた自身についてはもちろん。きちんとお互いのことを一番に考えられる相手を見つけて、そういう人と結婚してほしいです」 いやわたしのことなんか。今ここではどうでもいいんですよ。 思わずそう言い返そうと口を開きかけたわたしを、わかってますから、と言わんばかりに先んじて手の仕草で制して黙らせる。 「ですが僕の心配までして頂くには及びません。先方もこちらも、お互い伴侶となる存在に対して愛情は期待していませんから。それだからこそ、僕は彼女と結婚すべきだと判断しました。あの人以上に僕の妻として相応しい女性はまず現れないでしょう」 「…どうして」 そんな風に。自分のことを決めつけるの? 彼に愛情を抱かない人ほど。より自分の伴侶として相応しい、だなんて。 言葉が上手く出て来ずに、目を見開いて眼差しで彼に訴えるわたしの耳を静かな重い声が容赦なく打った。 「…僕が。他人に対して全く、何の感情も抱けない特殊な欠陥人間だからです」 …。 「そう。…なの?」 多分わたしの目は薄いガラス板みたいにかしゃん、とその瞬間割れたように変化して見えたんじゃないかと思う。 一瞬視界に何も映らなくなった。世界は目の前で砕け散った。…何だか今、絶対に聞きたくない。知りたくなかった、致命的なことを言われた気がする。 ようやくぼやけた視界に歪んだ彼の姿が映った。こっちに目線を向けずに、顔を下に向けて俯いてる。その表情は全くこちらから見ては取れない。 脳の中でがんがんとうるさい音がやたらと響いてる。今わたし、何て言われたんだっけ。 …そうだ。これまでこうやって一緒にいても。わたしに対して何の感情も抱いたこともない。 親しみも優しさも、わたしたちの間には。本当は何も、なかった…。 だけど、最低なのはまだそこじゃなかった。 彼は手のつけられない香り立つコーヒーのカップを前に、能條家の過去の話を語り始めた。
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