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第16章 悪い夢の中にいるみたい
「…僕の母は。今になって思い返せばおそらく、僕自身と同じようなタイプの人間でした」
膝の上で持て余し気味に手を組み合わせ、ゆっくりと言葉を選ぶように独白を始めた。何か不穏な気配を感じたのか、ノマドはすとんと彼の膝から下りてこっちへやってきて、わたしの脚に身体をすり寄せるようにして甘える。何をどう受け止めていいのか全くわからないまま、とにかく目の前の猫を抱き上げてその温かみに縋るように膝に乗せた。
「物心ついたときから。あの人と接していると、薄いガラス越しのような独特の感覚があった気がします。だけど僕はそのことはそれほど気にはならなかった。母というのはそういうものなんだと思っていたし、むしろその感覚に懐かしさや落ち着きを覚えていたようです。それは今になって思えば。自分も同類なので、むしろ薄い壁を隔てて他人と接している方が通常の状態だったからなんでしょうね」
こんなときなのに。お前といても金輪際何の感情も動いたことはない、とはっきり言い渡されたその直後なのに。
今初めて彼が家族のことを打ち明けてくれているんだ、って事実がどうしようもなくわたしの心を打った。
「だけど、父は違いました。彼は僕らとは違ってごく当たり前の心の触れ合いや感情のぶつかり合いを求めていたし、その手応えのない妻に対してずっともの足りなさや不満を抱えていたようです。…彼は能條家直系の跡継ぎで、その立場を利用して権力を振るうのにさほど迷いがないタイプだったんじゃないかと思います。僕の母のことは何かの機会に見初めてやや強引に妻に迎えたようなんですが、細かい事情は不明です。二人の詳しい馴れ初めは今となってはもう知る由もないので」
「お母様。…お綺麗な方だったんでしょうね」
思わずぽつりと感想が漏れる。
その方の妹さんの娘である茅乃さんからは、自分のうちは能條家とは較べものにならないごく普通の一般家庭だ、と何度か説明されてる。
どういう経緯でお二人が出会ったのかはわからないが。上流階級同士の社交界での交流や由緒正しい家同士のお見合いがきっかけではなかったんだろうな。推測だけど。
彼は話してることでやや落ち着きを取り戻した様子で、コーヒーのカップに手を伸ばして両手のひらでそれを包んでしばしその温かみを味わっていた。暖を取ってるみたい、とふと脳裏にそんな感想が浮かぶ。
「外見でいうと僕は母似です。彼女は髪の色も目も肌も、全ての色合いが全体に薄かった印象が残っています。きちんと検査したことがなくても、彼女もアルビノの因子を持っていたんでしょうね。尤も因子だけなら父方にもあったはずですが。色素欠乏症は劣性遺伝ですから」
「ああ…、そうですよね」
わたしは思わず頷いた。
それは以前に調べて知った。そう考えると能條家はそもそもアルビノの因子を持った家系だったのか。だけど劣性ってことは父方と母方の双方が因子を持ってないと顕在しないから。どちらの家でもそのことに気づいてなくても別におかしくない。
わたしの思考を読んだわけではないだろうが、柘彦さんは補足するように説明を付け加えた。
「細かいところはいろいろ曖昧なんですが。僕の漠然とした記憶では父はごく普通の外見でしたが母にはやや僕と似た特徴が僅かながら出ていたように思います。色合いが薄く感じられるだけで特に症状もなく、診断を受けることもなく育っただけで今思えば彼女も軽度の色素欠乏症だったのではないでしょうか」
言葉を切ってカップを囲っていた手を離し、持て余すように組む。台詞が奔流のように溢れ出すのを一旦止めて整理するように。
「そのせいとは思いませんが性格的に何というか。覇気の感じられない人でした。何かしたいという強い意志ですとか、欲求や執着みたいなものがほとんどないんです。父に求婚されたときも深い葛藤もなく言われるままにただ受け入れたようでした。そういう経緯については、両親が僕の目の前でも激しくやり合うことが多かったので。自然とわかってしまったんですが」
「そう。…なん、ですか」
何てフォローしていいかわからない。おそらく大人しくてもの静かだった彼はその場に居合わせても存在感が希薄なせいで、家族からそこにいないものとして透明な子どもみたいに扱われることがあったんだろうな。とうっすらわかってしまうのがつらい。
「すんなりと言うことを聞いて結婚話を受けてくれてそれでめでたし、で終わらないのが人間の強欲さというか。父も彼女に何を求めているのかはっきりわかっていなかったのかもしれません。おそらく自分がかけただけの愛情や関心を返してほしかったというか。手応えのようなものを求めていたんでしょうね。一方で母からしたら求婚を受け入れて妻になった、彼の子どもも産んだ。それ以上何があるのかってくらいの感覚だったでしょう。二人はお互いのことが全く理解できていなかったんだと思います」
彼の声や表情からは何の感情も伺えない。淡々と頭の中で事実を並べてそれを順番に引き出していく作業をこなしているみたいに見える。一方でテーブルの上で組まれた両手はどこかもどかしそうに忙しなく形を変え続けていた。
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