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「殴ったり蹴ったり、直接手を上げるようなことはありませんでしたが。父は母に執着していました。反応を引き出したい余りの言葉の暴力もありましたね。母は言い返すこともせずいつも端然と黙り込んで聞き流していました。そういう意味では喧嘩ですらなかった。…彼女の方でもそれに対していつも全く何も感じていなかった。という証拠はありません」
無感情な顔つきで、両手を組む力を一瞬だけぎゅっ、と強く込める。
「…おそらく相手の感情があまりに理解できず対処しきれなくなって。心を閉じて表面を固く鎧ってガードしていたんでしょう。だけどそんな風に反応を見せないのがまるで相手の存在を無視しているようで、ますます夫の逆鱗に触れた。そういう経緯だったんだと思います」
手を伸ばして固く握りしめられた彼の手に触れたい。だけど、それはできない。
わたしは力を込められ過ぎて少し白くなっている彼の両手をもの悲しい思いで見つめた。
「…そのうち父は。母の不貞を疑い始めて妄想に取り憑かれたようになっていきました」
言葉を切って小さく息をつく。絶対に感情は外に出さない、と覚悟を決め直すように。
「二人の唯一の子である僕が彼に似て見えなかったことも火に油を注いだようでした。そんな障害者を出すような血は能條家には流れてない。その辺のよその男の血じゃないか、と母を責め始めて。アルビノ的な特徴が母の方にだけ出ていたのもその邪推に拍車をかけたようです。そいつはどこの男の胤だ、今でも隠れて会ってるんだろうとか。普段から誰でも手当たり次第だからこいつの父親がどんな男か思い出せもしないんだろう、とか」
「ひどい」
わたしが急に声を上げたので膝の上でうとうとしていたノマドが驚いて顔を起こした。ごめん、と謝って落ち着かせようと背中を撫でる。彼女を安心させて再び寝つかせているうちに話はさらに陰惨な方へと流れていった。
「母は全く社交的な人ではなかった。それはまだ幼少で、ほとんどの時間を彼女と過ごしていた僕にははっきりわかります。昼間に外出したり、誰かを館に呼び入れたりすることもなかった。だけどそのことを声高に主張して身の潔白を証明しようともしなかった。…母がそういう受け身の態度を変えるべきだったのかどうかは。今となっては何とも言えません」
わたしの膝の上で再び寝入っているノマドにふと和らいだ目を向けてから、再び言葉を継いだ。
「本当は抗議したり取り乱したり、泣いたり悲しい表情を見せて人間らしい面を夫に対して見せればまだましな結果になったんでしょう。だけど彼女にはそれができなかった。表面をかっちり守って固く奥に閉じこもり、何で目の前のこの人はこんなに喚いたり取り乱したりするんだろうと戸惑いながら早くこんなことが終わってほしい、と思いつつ心身を守っていたんでしょうね。だけどそれがさらに彼女の夫の逆上を招く結果になった」
彼の声や表情から、すっと全ての色が抜けて完全な無になったように思えた。
「ある日僕が学校から帰ってくると。母の部屋の床が血塗れになっていて、執事やメイドたちが必死にそれを落とそうと作業していました。そして母と父の姿は。…どこにも見当たらなかった」
無表情で淡々と言葉を紡いでいるのに。今は何も相槌を差し挟まれたくない。コメントされたくない、と強く思っているのがひしひしと伝わってきた。
「当時の記憶は改変されているのか、ところどころ矛盾したり抜け落ちたりしていて今となってはあったことを正確に再現できません。当時の使用人も今は誰一人残っていませんからもう証言をする人間もいませんし。…確かあの日、学校に連絡が入って早退するように言われたって覚えはあります。母の部屋の血の染みが結局最後まで完全には落ちなくて、作業半ばの状態で中止されたことも。…今ではその部屋は閉じられて、もうずっと使われてはいません」
「お父様は。そのあとどうなさったんですか?」
お母さんがお父さんに刺されたか何か危害を加えられたんだ、ってことはわかった。だけど確か哉多も常世田さんも、彼のご両親は同日に亡くなったって言ってたはず。…つまり。
まさか。
彼の声は感情をなくしたあまりまるで棒読みのように響いた。
「母を刺したあと父も自分を刺しました。相手を滅多刺しにするのはよくあることですが、自分で自分を刺殺するのはなかなか出来ることではありません。完全には死にきれなくて最後は窓から飛び降りました。それなりに弱っていたのでそれで何とか思いを遂げたようですね。母の部屋は四階でしたし。…ここから現場の部屋は離れているので。心配しなくて大丈夫です、僕も両親の幽霊を見たことはありません」
最後の付け足しは軽口のつもりもあったのかもしれないが、さすがに何か返す気にはならない。
…事故じゃなかった。無理心中、だ。
どんな表情をしていいかわからなくて顔が上げられない。縋る目を膝の上の眠るノマドに向けて、機械のようにひたすらその背中を撫で続けた。
そこにぽた、と温かい水が落ちて慌てて袖で目許を拭う。ノマドがびっくりして起きちゃう。
猫の毛って少量なら意外と水を弾くんだな、とぼんやり考えながら背中の牛柄の模様を目でなぞっていた。
「…嫌な話を寝る前に聞かせてしまいましたね。すみませんでした」
「いえ。…それは」
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