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大丈夫です、と口の中で呟いてさらに溢れてきた涙を拭く。
話してくれてありがとうございます、とかも場違いに思える。口にしたくもない、思い出したくもない封印された記憶のはずだ。身を切るようにあえて打ち明けてくれたことに対して。そんな軽い表現じゃ済まされない。
「…ずっと、あのとき起こったことについては考えないようにしてきました。考えても起きたことは消せない、詮ないことです。だけど自分の存在がこうして未だにこの世に残っているのはやはり不合理だって思いは拭えません。僕が生まれたことが引き金になって。二人分もの生命が跡形もなく消えてなくなるきっかけになったわけだから」
「それは。…違いますよ」
そうじゃない。わたしはかっとなって燃える目を正面から彼へと向けた。
そうじゃない。彼が父親に似ていなかったからなんて、後からのこじつけだ。それがことの根本的原因じゃなかったことは、話を聞いてただけのわたしでもわかる。
「あなたが例えお父さんそっくりだったとしても。お父さんはお母さんを責める理由をどこかから見つけて引っ張り出してきたに決まってます。張り合いのない奥さんの反応を引き出すために無理に目をつけた難癖のひとつに過ぎないじゃないですか。…子ども本人の前でそんなこと。どうかしてます、責任ある大人が。…あ、その。すみません…」
思わず夢中でまくしたてかけて、我に返って縮こまる。曲がりなりにも彼のお父さんを、彼の目の前で思いきり罵倒するところだった。
その人が全く褒められた人物でないとしても。仮にも血の繋がった親をその辺のぽっと出の小娘に上から貶されるのはさすがにいい気持ちじゃないよね…。
顔を上げてわたしに正対した彼の眼差しにはどこか寂しい、和らいだ色が滲んでいた。
「…眞珂さんは。ほんとに優しい、綺麗な心の持ち主ですね」
「そんなこと」
言葉より彼のその表情に喉が詰まる。これまで何度もたびたび向けられた、柔らかな安らぎを湛えた目の光。
だけど、その裏には何の感情も存在してなかったんだ。今でもまだ完全には信じられず思わず目を背けた。
相変わらず表情筋を使わない、目だけの微かな変化。だけどそれだけでこんなにもの寂しい優しさがひたひたと伝わってくる気がするのに。それが全部、ただのわたしの思い込みと希望的観測に過ぎなかったなんて。
直視したら駄目だ。やっぱりそんなわけない、彼だって少しはわたしの存在に気持ちを揺り動かされてるはず。って期待に縋ってしまうに決まってる。
わたしは顔を逸らしたままぼそぼそと呟いて否定した。
「…ないです。…全然」
わたしたちはしばしお互いのカップの中のコーヒーを何ということもなく見つめた。
「それで。…そのあと、ずっとここで。お一人で?」
自分だけの思いに沈んでいる彼の気を引き立てる方法も見つからず、とりあえず話の先を促した。彼はふと目が覚めたような顔つきでわたしを見返した。
「…ああ、すみません。そうです、母方の祖父母は既にいませんでしたし。父方は祖父が存命でしたが旧い屋敷に住み続けるのを拒んでずっと以前に東京のマンションへと転居していましたから。事件のあと葬式など一切を取り計らってはくれましたが、後見人として僕の身分保証をする以外接点はありませんでした。結局僕とは以後二度と顔を合わせることなくそのまま逝去しましたね。父を狂わせた母にそっくりな僕の顔を見るに耐えなかったのでしょう。おそらくは」
わたしは無意識に悲痛な顔つきをしていたのかもしれない。彼は言葉を切ってほんの少し笑みに似たものを頬の端に浮かべ、わたしを励ました。
「そんな悲しそうな顔をしないでください。僕は特に不幸だとは思いませんよ。一人でいるのはどちらかといえば性に合っています。叔母夫婦…、茅乃さんのご両親が僕のことを心配して自分のところに来て一緒に住もうと言ってはくれていましたが。僕の方でお断りしました。住み慣れた場所を離れるのは億劫でしたし。身の周りの世話をしてくださる方々がいれば特に生活の不自由はありませんから」
「叔母さまや叔父さまが心配したのは。そういうことではないのでは」
両親が普通じゃない理由で非業の死を遂げたあと。小学生の子どもを一人きりで広大な館に住まわせておいていいのか?って誰でも当然考えると思う。まして悲劇が起きた現場そのままじゃないか。
柘彦さんはわたしの反論に静かに首を横に振った。
「…僕は誰とも暮らさない方がやはりいいんです。大人になって改めて冷静にあの事件のことを顧みると尚のことそう思います」
彼は再び自分の目の前のカップを持て余すように両手で包んだ。つられてわたしも自分のカップに手を添える。それはいつの間にかすっかり冷めて、ほんの僅かぬるい温かさだけが感じられた。
「学生時代は誰とも交流せず、最低限の他人とのやり取りで済ませて勉学以外のことは全くせずに終わりました。やはり人と接するのは苦手ですし。それだけでなく、怖いんです。絶対にそんなことはないと基本的には考えてはいるんですが…。いつか何かの拍子に間違って母のように、誰かに特別な関心を持たれて。それに対して僕が相応のものを返せなかったら、と思うと」
心臓がずきん、と鋭いもので刺されたようにひどい痛みを感じた。
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