第16章 悪い夢の中にいるみたい

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それって、どう考えても。…わたしのこと、だよね…。 彼は感情を全て打ち捨てたような乾いた口調で淡々と独白を続ける。 「父が母に抱いたような異性への思いに限りません。僕はやはり、どこか根本的な欠陥を抱えてるんだと思います。あの出来事のあと執事もメイドたちも、叔母夫婦も。学校の先生も僕のことを心配して親切に心を配ってくれました。小さかった茅乃さんも時々両親に連れられて遊びに来てくれて…」 そういえば。彼女は柘彦さんのお母さんが大好きだったって言ってたな。自分のことを可愛がってくれて、綺麗で憧れたって。 だから事件のあとの従兄のことも心配で世話を焼いてたんだろう。彼のお母さんの短い生涯の中でそんな風に少しでも姪っ子との心の通い合いもあったのかな、とほっこりしたのも束の間。打ち明ける彼の眉の辺りが僅かに曇った。 「だけど、頭では感謝はするんですけれど。自分の外側の人たちの優しい心配りがどうしても内側に滲みてこないんです。何だか全てが遠く感じられて、ガラスの板の向こうで起こっているみたいに実感がなくて。上手く反応が返せなかった。何年もそんな状態が続くとそのうちみんなだんだんと僕の周囲から離れていきました。そのことは特につらいとか、悲しいとは感じなかった。むしろもう返さなくていい、反応を期待されなくて済むと思ってしまって…。そこでふと愕然となりました」 もう熱くないカップを包む彼の手に力がこもって、指が白くなった。 「この状態は母が見せてた態度とほとんど同じじゃないかって。周囲から強い思いを向けられたり、気遣いをされたり特別に扱われても反応できない。相手の思いを察知しても理解できず黙って戸惑ってるだけ。ガラスの内側でじっと身を硬くしていればみんな諦めて去っていってくれる。自分に感情を向けてくれる人に何も返せずに彼らが通り過ぎていくのをただ待つしかない、なんて…」 わたしは俯いた。そんなことないですよ、なんて言えない。 これはわたしに向けられた言葉なんだから。わたしの気持ちは今後とも一切受け取れない。その理由をここまで腹を割ってあえて説明してくれてる。 その配慮を軽々しく否定なんかできない。 言いにくいことをようやく口にできて肩の荷が降りたみたいに。彼の声がそこでふと微かに和らいだ。 「…だから、これが一番の解決法だと思うんです。僕は自分に勿体ない愛情をかけてくれる相手とは結婚するわけにはいかない。例えお見合いで、始めたときに愛はなくても。夫婦として長いこと一緒にいれば人情として期待するでしょう。恋愛ではなくても伴侶に対しての特別な思いや、絆みたいなものを…。あの女性にはそれがありませんから」 むしろ晴れ晴れとした、といった声になってそう告げる。 「最初からビジネスや自己実現の一環として僕の身分や所有物を求めてるだけなので。感情が入る隙が一切ないわけです。それなら、僕が彼女に何の思いも抱かなくても傷つける恐れはないでしょう」 「…そ、う」 でしょうか? わたしにはよくわからない。財産やお屋敷目当てで結婚するからって。配偶者になった相手に感情的には金輪際何も期待しない、なんて。絶対に断言できるものなのか? だけど恋愛や、支え合う配偶者が欲しいって動機でお見合いして一緒になるよりはリスクが少ないことは確かかもしれない。先のことはまだわからないが。 「彼女と入籍することで僕の持ってるものがあの人の役に立ち、この館やここで働く人たちの身分も保証されてみんなずっとこのままここにいることができる。…僕のような経営能力のない人間が当主では。この先どうしてもじり貧ですからね。茅乃さんがあれこれ頑張ってくれてはいますが対処療法ですから。長い目で見れば限度があるでしょう」 「…結局、館の存続や。家系を維持するために結婚するんですね」 わたしは悲しい思いでぽつりと呟いた。 ほんとは彼が心から好きになった特別な誰かと結婚してほしかった。それがどうしても無理ならずっとここで、一人超然と変わらないまま暮らしてくれると思ってたのに。 彼はわたしの恨み言に近いような余計な一言に微塵も動かされた風もなく小さく肩をすくめた。顔に薄い硬い仮面をまとったみたいに、表情筋はぴくりともしない。 「…それはきちんと意味のあることですから。僕はこのままでは生きていても仕方のない、この世界の中で何の役割も持たない必要のない人間です。ですが誰かと入籍するだけでこの家が維持できて、皆がここで暮らせるわけですから。取引としては充分ですよ。彼女が現れなければ僕は、存在する意味もないのにただ無意味に生きながらえている、日々じわじわと遺産を食い潰しているだけの立場で終わっていたんですからね」 わたしは冷蔵庫に入れっ放しで放置されて半分凍ってしまった牛肉の塊みたいな状態で、ほとんどものも考えず毎日を過ごした。 わたしは彼を救えなかった。救う、なんてそもそもこんな何の力もない未熟な子どものくせに最初からおこがましいが。
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