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とにかく柘彦さんにとって全く何の意味もない、役に立たない存在だったことは確かだ。本当に何も出来なかった。
愛情のない結婚を選んだ彼をこの先暖め続ける言葉を考え出して、慰めにかけることさえ。
澤野さんにわたしたちが話し合ったことをどう説明したのか覚えがない。おそらく翌日には滞りなく結納が行われて、心配した彼女はわたしにどうなってるのか問いただしたのかもしれないけど。
きっと要領を得ないことをごもごもと適当に口にして済ませたんだろうな。気づいたときには澤野さんは腫れ物に触るようにわたしに接するようになっていた。きっとよほど酷い顔つきで館の中を歩き回ってたに違いない。
季節は巡り、辺りの空気はふわりと暖かみを増して春が近づいてきていた。シーズンのピークを控えて薔薇も次々と弾けるように日々綻び始めている。
柘彦さんの結婚式もそれにつれて間近に迫ってきていた。
「お屋敷のガーデンパーティで披露宴なんて、さすが上流階級の方々のすることだね。庶民にはとってもじゃないけど、真似できねぇなあ。自分ちのバラ園見せびらかして何百人もの前で結婚式あげるとか。贅沢な話だよねぇ」
いよいよだから気合い入れて手入れしないとな。とわたしに発破をかける堤さん。せっせと木立性のバラの芽欠きに精を出す。庭園のチェックにわざわざ出てきた茅乃さんが浮き浮きした口振りでそれに応じて軽口を叩いた。
「わたしのときもほんの端っこでいいからここの庭貸してもらおっと。ガーデンパーティーは大袈裟すぎてむず痒いから広間を貸してもらえればいいかな。眞珂、しけた顔してないの。あんたには当日ブライズメイドとして式に華を添えてもらうつもりなんだからね。そしたらドレスもこっちで用意できるし。一石二鳥でしょ」
「まあ、そうだな。なかなか見れない本物のセレブの結婚式だから。せっかくだしよく観察して将来の自分のときの参考にするといいよ」
二人とも、気遣ってくれてるのか無神経なのかわからない。というかいくらわたしの落ち込みぶりが見え見えでも、そこは見てみない振りをするのが正しい心遣いなのかもしれない。憧れの人が結婚してしまうってことでがっくりしてる思春期の娘みたいな扱いなんだろうな。
別に憧れが儚く潰えたわけでも、玉砕覚悟で突撃してこっぴどく振られたわけでもないのに。いやどうなんだろ、これはこれで失恋て言えるのか。自分のこの気持ちが恋だってはっきり認識したことはないけど。
お前の心遣いや気配りは重荷で迷惑だった、下手に構われるのがなくなればいっそせいせいする。って言われたも同然の内容だったので。
これまで少しは他の人といるよりはわたしとなら落ち着けて安らげてるのかな。なんてほのかに自惚れてた気分を一気に叩き潰してくれた。
気がつけばまた暗い顔つきになってたらしい。わたしの背中を茅乃さんがばん、と荒っぽく気合いを入れるように叩いた。実に野蛮なひとだ。
「まあ、これもいい経験だと思ってさ。どのみちあんたみたいな将来のある前途洋々な子にはあんな古びたおっさんは合わないよ。てかわたしが反対する。…もっと年相応のきらきらした恋しなきゃ。生命短し恋せよ乙女、だよ。眞珂!」
「…浮かれてるなぁ。よほどお屋敷の存続に目処が立って嬉しいんだろうな。仕事熱心な人だよな、彼女」
弾む足取りで館の中へ戻っていく背中を見送って堤さんが半分呆れた声で呟く。わたしはまだひりひりする背中をさすりながら肩をすくめて答えた。
「あの人の場合は恋する相手がこのお屋敷ですから。他人のこと言えないと思う。よほど自分の方が不毛な恋愛してますよ。洋館とどうやってハッピーエンド迎える気なんでしょう」
「そりゃお前。いろいろあるだろ。改装したり補強したり、隅から隅までぴかぴかに磨き上げて。レストラン作ってホテルにしてパーティーもできる貸し出しホールも整備して。あ、エレベーター設置してもいいかもな。年配のお客さんのために」
「…もういいです」
わたしはげんなりして師匠の台詞を遮った。
それで幸せになれるなんて、心底羨ましい。いやどうなんだろ、潤沢な資金を思うさま使えないと叶わない望みだから。そう考えると結構簡単な話じゃないのか。だけどひとの心のことほど思うようにならないってイメージはない。
叶わないときの全てが真っ暗になるようなあの絶望感もなさそうで。
「…ようやくまともに喋ったな、奈月」
安堵の混じった声をかけられてわたしは我に返って隣でせっせと手を動かしてる師匠の方を見やる。
「そんなに様子へんだったですか、わたし。…すみません」
「いやしょうがねぇよ。人間なんだから、落ち込んだり余裕ないことだってあんだろ。上の空で仕事になってなかったりバラを傷めたりしてたらどついて意識回復してやろうと思ってたけど。このところずっと機械的ながらも意外にまあまあこなしてたよ。あのな、奈月」
「はい?」
手が止まってるぞ、かな。慌ててわたしも花鋏を構えて別の柵の芽欠きに取りかかる。
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