第16章 悪い夢の中にいるみたい

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「…下鶴さんの言ってることに反対するってわけじゃないけど。てめぇの正直な気持ちに蓋することないよ。辛くてもちゃんとそれに向き合った方がいい」 「…どうしたんですか、師匠」 毒気を抜かれて自然と花鋏を操る手が止まってしまった。なんか、思ってもみないこと言われた。花と向き合え、とか。自然は裏切らないから庭師の仕事に打ち込めばいいとか。そういう慰め方をされるとばっかり。 彼は屈んで下の方の枝に取りかかっている。わたしの方に背中を向けていて、その顔は全く見て取れない。 「…いや」 だいぶ時間を空けてから、忙しなく手を動かしつつぽつりと続ける。ぱちん、ぱちんと弾けるような鋏の音に紛れて呟いた。 「どうせ無理だからとか、今からじゃ手遅れだからとか。変に捻じ曲げてごまかして見ない振りしてると押し込めてたもんにあとから復讐されることもあるから。自分の気持ちは素直に認めて、わんわん泣いてすっきりして次にいけばいいかなと」 「いえ、ですからあの。わたし、振られたわけじゃ。…ないんですよ」 ていうか、真面目に考えて。最初から身分と年齢とスペックが違いすぎる。普通に恋愛が成立する組み合わせじゃないので。当然わたしがあの方に失恋して落ち込んでるんだろって勝手に合点しないでほしい。もっといろいろあるんだ、落ち込まずにいられない理由が。 わたしの弱々しい抗議は全く取り合われず、ぱちん、ぱちんという鋏の音に紛れてしまう。 「そうやってどんよりしてる間は結局外に出せずに中に毒溜めたままなんだからさ。失恋したらしっかりそのこと認めて全力でいっぱい悲しめばいいだろ。表向きはともかく、自分自身に対しては下手に否定して向き合わないでいると。何年も経って忘れた頃に幽霊みたいに戻ってきてえらい目に遭うことだってあるんだから…」 「急に何ですか。いやに具体的ですね」 わたしは面食らって思わず尋ねた。 師匠の口からこんなこと言われると正直考えてもみなかった。澤野さんあたりが言いそうなことかなと。恋愛の悩みなんて、俺にはぴんと来ねえからさ。であっさり片付けちゃいそうな人なのに。 なんか、自分でも身につまされるような痛い経験でもあるのかな。ていうかなければこんな台詞そうそう出てこない気がする。どうにも意外だ。めちゃくちゃラブラブの奥さんと仲良しのお子さんたちに恵まれた、そっち方面の後悔なんて無しの人生としか思えない環境なのに。 わたしの声に含まれた怪訝な色に気づいてか、彼は話を切り替えるようにぱっと立ち上がって鋏をしまい、きっぱりと言い切った。 「別にどうってことない、普通に一般論だよ。ただ、自分は悲しいんだってことをちゃんと認めて存分に悲しめってこと。それができれば消しきれないでゾンビみたいに残った思いにあとから復讐されることも…、ないとは言えないけど。多少は確率減らせるかな、ってな。ま、おっさんからのただの忠告ってやつだよ。…次行くぞ、ほら。ここの庭は広いんだ。このペースじゃ一日やっても終わんねぇぞ」 結婚式当日は滅多にないほどの真っ青な空が頭上に広がる爽やかな五月晴れ。 式そのものは特に藤堂さんの方も拘りがないのか、館からさほど離れていないチャペルでほぼ身内だけで済ませた。そうは言っても先方はともかく、能條家には身内ってほどの身内もいない。茅乃さんのご親族ご友人と釣り合う数にならないといけないから、バランスを考慮してわたしたちお屋敷の使用人もみんなして式に参列することになった。 「見てよ、眞珂。…綺麗ねぇ。映画かドラマの一場面みたい。ほんとにお似合いの二人だよねぇ、あの人たち」 うっとりした茅乃さんにそっと囁かれた。そんな、見ればわかることわざわざ同意求められても。 「…そうですね」 無難にそう返すのがやっと。ほんとに、見なくて済むのなら見ないで済ませたかった。彼女の言葉通り、信じられないほど釣り合ってる二人をこの目で見たって。心の底から何の意味もないとしか。 薄いグレーの礼服を身につけた柘彦さんは実に、非現実なくらい美しかった。王子様ってこういうビジュアルをイメージされてるんだろうな、と納得する。もう王子って歳でもないはずなんだけど。 思えばこの人はわたしが初めて会ったときから全く変わらない。無年齢モデル、って感じ。 だけど本当にすごいのはその隣に臆するところなく平然と並んで、しかも見劣りしない藤堂さんかもしれない。 彼女がどこか晴れ晴れとした表情を浮かべているのに対して、彼の方は能面のように全く表情というものがない。だけどそれは緊張しているせいだって参列者のほとんどは受け止めているんだろう。 彼は自分の外側で起こっていることで感情を揺り動かされることがない。なんて事実、そもそも承知しているのは多分館に勤めてるわたしたちくらいのものだ。 彼が人形のように唯々諾々と、事前に指示されたままに誓いの言葉を述べて指輪を彼女の指に嵌め、ベールを持ち上げて彼女の額にキスするのを早く終わらないか、とどこか麻痺した感覚でガラス越しに眺めるように非現実的な思いで見ていた。
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