7人が本棚に入れています
本棚に追加
伸び上がってざらざらした舌でわたしの頬を舐めるノマドを両手で何とか支えながら懇願すると、茅乃さんは目にちょっと複雑な色を浮かべて肩をすぼめてみせた。
「それは。あんたが心配することじゃないと思うよ、眞珂。忘れてるみたいだけどあの人だって一応三十年生きてる歴とした大人の男なんだから。ちゃんと決断できるし、本人も自分が考えてることや感じてること充分認識してると思う」
「う。…ん」
それは。そうなんだけど…。
曖昧にしか頷けないわたしに、彼女はいつになく情感を湛えた眼差しを向けて噛んで含めるように続けた。
「どんな縁談が来たとしたって、どうしても断りたいなら断れるんだし。何も意思や行動の自由を奪われて。身動きできない状態で選択肢を奪われてるわけじゃないのよ?あの人だって。きちんと自分のことは自分で決められるはず。だから、あんたは余計な気遣いしなくていいの。大人しくことの成り行きを見ていなさいよ。…ね?」
その日館を訪れたお見合い相手のその人は、確かにほう、と一瞬見直してしまうくらいお綺麗な女性だった。
先方のご両親と秘書の年配の男性を連れて登場した彼女が茅乃さんの案内でダイニングルームに通されたのを端っこで控えていたわたしは目にして、はあこういう人か。事前にちらと聞いてなければ確かに結構意外なタイプだ、と改めて感嘆する。
今朝茅乃さんから匂わされるまでは、旧家の跡取りとのお見合い話が持ち込まれるお嬢さまなんてごくごく深窓の大人しく控えめな女性というか。自分の意思もはっきり出さないようなおっとりとした受け身の性格なんだろうと漠然とイメージしてた。じゃなきゃ今どき親の言うままによく知りもしない名家の長男(無職)とのお見合いの場に唯々諾々と連れてこられたりしないだろう、って思ったりして。
だけど現れた女性はいかにも見るからに自分の意志で全てを仕切る人。なるほど実業家だな、と一目でわかる気がする。誰かに連れてこられてこの場に来たって感じは一切しない。むしろご両親も彼女に連れられてついてきた、という様子に見えた。
茅乃さんと愛想よく言葉を交わしてるところを見るとこの二人、馬が合いそうだ。似たタイプだから意気投合するか反発し合うかどっちかだろうなって感じ。茅乃さんと相性がいいってなると。
わたしは何となく嫌ぁな予感がして目立たないように首をすくめた。茅乃さんの今後のごり押し、拍車がかかりそうで。先が思いやられる…。
この手のタイプの女性が、どうしてこのお見合いを受ける気になったのか。澤野さんを手伝ってお客様にお茶をお出ししながら頭の端を漠然と疑念がよぎる。親から示された縁談を検分もせずにそのまま真に受けて素直に従うようには見えない人だ。
おそらく既に自力で相手のことを徹底的に調べ上げ、全てを把握してからこの場に挑んでるはず。
そう考えると一体どうして、良家のお嬢さまの立場に甘んじず自ら事業を立ち上げてばりばり働く自立した女性が。
大学を卒業して八、九年余り。どこに所属するでもなく就職もせず、かと言ってフリーで働くでもない高等遊民の身で居続けるある種無気力な(柘彦さんを悪く言うようで心苦しい。でも、世間的に見ると間違いなく多分そう)男性を結婚相手の候補になんて。どうしてこんな話を当然のように受けたんだろう?誰に強いられたとも思えないのに。
しばらく先方のご一行と茅乃さんの当たり障りのない世間話が続いたあと、彼を迎えに行った彼女がその場を外してしばらくのちに戻ってきたとき。
茅乃さんに背中を押されるようにしてダイニングルームに姿を現した彼その人を目にしたわたしはうっすらと疑問を抱く。もしかしてこのお見合い相手の女性。…ただ単に滅多にこの世に出現しないレベルの美形の男性の写真を目にして、あまりの尊さに錯乱して縁談をうっかり受けてしまったんじゃ…。
ととち狂った頭が発想してしまうくらい。その日の柘彦さんは神々しく美しかった。
立ち上がって彼を迎え入れる先方のご一行の中で、お見合い相手の女性の隣に立つ彼女のお母様がほぅ、とうっかりため息を漏らしたくらいだから。その非日常的な美形振りが伺えようというものだ。
無職でも無気力でも、この美貌があればオールオッケー。とかいう考えの人じゃなければいいけど、と内心でやきもきしながら本格的なコース料理が供され始めたダイニングルームをあとにした。茅乃さんが依頼したプロのフレンチのシェフの店の人が料理の給仕も全部仕切るから。あとはしばらくわたしはその場でする仕事も特にない。
「眞珂ちゃん、お疲れさま。何とか無事始まったから。もうわたしたちは当面お役御免ね。休んでていいわよ後片付けまでは。お茶でも淹れようか?」
キッチンの隣の従業員用のダイニングスペースに戻ると澤野さんがそう言って労ってくれた。お手伝いします、と申し出て一緒にとりあえず熱くて濃い紅茶を淹れる。二人してテーブルの前の椅子に身を投げ出すように座り込みふぅー、とため息をついた。
「朝からばたばたして、もうお昼過ぎか。あっという間に時間が経ってたけど何だか気持ちの方がまだいっぱいいっぱいでお腹が空いた気がしないわ。だけど眞珂ちゃんは育ち盛りだし。もうお腹ぺこぺこよね。何か急いで作ろっか?」
思い当たったように立ちあがろうとする澤野さんを手で押し留める。
最初のコメントを投稿しよう!