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「いえ、まだ大丈夫です。わたしもずっと緊張し過ぎてて…。お腹空いた感覚が全然ないから。少し休みましょう、今は」
「そう?まあ、だったらお茶飲んでからにしようか。今日はこのあとの仕事が多少ずれ込んでももういいかな。思ってもみないことが次々あったからね…」
全くだ。わたしは改めて憮然となり、不服が滲んだ口許をなるべく隠すべく顎の先を襟元に埋めてしばし黙り込んだ。
「…柘彦さんは。ほんとに大丈夫でしょうか。初対面の人と会って話したりするのがそもそも苦痛なひとなのに。何の心の準備も出来ずにあんな場にいきなり引きずり出されて」
わたしがやきもきしてるのとは対照的に、澤野さんは今ひとつ危機感のない口調で湯気の立つカップを手にしてからのんびりと答えた。
「うーん?…どうかしら。まあ、眞珂ちゃんが気を揉む気持ちもわかるけど。ああ見えてあの方、相当心が強いというか。やわそうに見えてもちょっと意外なくらい我が強くて意思の固い方だからねぇ…。誰が何と言おうとご自身の心のままに行動なさるでしょ。眞珂ちゃんもこのあとの成り行きを最後まで見守ればわかるわよ、きっと」
「…そう?ですか」
そうかなぁ…。
わたしとしては正直、そこまで彼が強く自分を保てるか確信が持てない。
茅乃さんみたいな信念強めな人に強引に何かを押しつけられると、反論したり抵抗したりするのがだんだん面倒になって最後は諦めて流されちゃうってパターンなんじゃないかなぁって危惧してる。だけど澤野さんの目から見ると。どうもそういうことでもないらしい。
彼女は少し面白がってでもいるかのように楽しげにさえ聞こえる口調でわたしを宥めた。
「優しく、大人しそうに見えるから押しに弱そうだって勘違いされがちだけど。あの方どうしてだいぶ手強いわよ。でなかったら大学卒業されたあと、何もせずにずっと何年も引きこもってられるわけないじゃない。名義上だけの役員として報酬を受け取るだけじゃ何だから、少しは会社のこと勉強して経営に口をはさめば?って茅乃ちゃんは柘彦さんに何度か提案してたけど。結局頑として絶対に首を縦に振らなかったわ。まして結婚なんて…」
「なるほど」
わたしはちょっと納得してひとまずお茶を飲もう、とカップに手を伸ばした。そう言われてみれば。
就職活動に失敗した、とか何かをきっかけにトラウマ発動して外に出られなくなったとか(その可能性はゼロじゃないけど。少なくとも大学までは普通に卒業したんだから、ご両親の事故のあと人前に出られなくなったってわけじゃないはずだ)不可抗力からの引きこもりではなくて。
本人がその気になればただ会社役員に名を連ねているだけじゃなくて多少は経営に関わることだって、周囲にサポートしてもらいながら会社を継ぐことだってできただろうし。どうしても実業が嫌なら大学に残って学者を目指すとか、あの頭の切れ具合を見てたら何もできないはずはなかったと思う。持って生まれたものを生産的なことに絶対使わない、って頑なさが。良くも悪くもあの人らしい。
「立派な大学を出て頭も良くて能力はあるのに。特別な理由もなく何もせずにいるなんて、って茅乃ちゃんはすごく気にして何かすることを見つけるようにずっと口を酸っぱくしていろいろ言ってたのよ。だけど全く歯牙にもかけた様子もなかったわ。あの経緯を見てたらねぇ…。他人の言いなりになって結婚するなんて。あの方に限って言えば、まあそう簡単にいくとは思えないわね。よりによってごくプライベートなことなんだし」
ま、茅乃ちゃんのことだから挫けず諦めずにしばらくは頑張って粘るんだろうけど。と苦笑い混じりに声を落として付け加えた。
「ちょっと失礼な話かもしれないけどね。あのお相手の方、確かにお綺麗で有能そうだしいくらでも引く手数多な素敵な女性なのはわかるわ。だけど、おそらく柘彦さんのお好きなタイプではないんじゃないかな。ほんわり穏やかで一緒にいるだけで心の安らぎそうな素朴な女の子が来たりしたら、これは危ないかな。って内心思わないではなかったけど…」
「危ない、って表現。何なんですか」
ちら、とこっちを横目で伺われてちょっと口ごもる。彼が急に結婚に乗り気になったりしたらわたしがさぞ落ち込むだろうってか。それは、…まあ。完全に否定もできないけど。
わたしは半分安堵、半分危ぶむような複雑な気持ちを振り払ってなるべく明るい声で澤野さんに告げた。
「もしあの方が絶対一緒になりたい。って心から思うような女性が現れたらそれ自体はおめでたいことでしょ。わたしたちは素直に祝福しなきゃ…、だけど。意に反して結婚せざるを得ない羽目になるのが駄目なんですよ。じゃあ、もし柘彦さんが今後誰かと結婚する、って話になったとしたら。それはご本人の意志であるって解釈して大丈夫なんですよね?」
彼女はくりっ、と大きな目を動かして同意の印に手にしたカップを軽く持ち上げてみせた。
「それは心配ないと思う。小学生の頃から見てきたけど、あの方は意思も強いしご自身で判断できる方よ。まあ、その判断の結果がいつも絶対正しく最善かっていうと。そこは何とも言えないけど…。でも茅乃ちゃんと根較べをして負けちゃうような性格ではない。そこは自信を持ってイエスと言い切れるわね」
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