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「…間に合う?」
何にだ。と疑念を抱きつつもあえて訊き返すほどの覇気もない。のろのろと鸚鵡返しに口を開いて、何の意味もない言葉を舌に乗せた。
澤野さんは深く頷いて、わたしの方に正面から向き合って噛んで含めるように言い聞かせる。
「このままじゃ柘彦さんがどういうつもりで結婚してもいい、なんて考えに至ったのか。わからないままで終わっちゃうんじゃない?その辺に何か誤解があるのかもしれないし。二人で顔合わせて話し合って、のちのち後悔がないようにしておいた方がいいんじゃないかしら。お互いのためにも」
「うーん…、でも。もうここまで来たら。話しても何も変わらなくないですか」
それに『お互いのために』がわからない。わたしの方はもやもやを抱えたまま彼が妻帯者になっていくのか、って気は少しあるけど。
柘彦さんの方は自分がしようとしてることはちゃんと理解してるだろうし。今さら悔いが残るとか引き返したいとか、あるわけないと思う。そんなに軽率というか、行き当たりばったりで物事を決める人じゃないはず。
あの人が結婚すると言ったならそこにはきちんとした理由と意図があるに決まってる。それがどういうものなのか。どう首を捻っても想像に及ばないのはわたしが考えが浅いのか、さもなきゃ深く考えるのを本能的に拒否してるからだろう。
澤野さんは何とも言えない色を瞳に浮かべて、布巾を手にしてじっとわたしを見た。
「本当に彼が結婚しちゃったら。もうその真意を聞くチャンスは二度とないかもしれないわよ。結果として結婚を止められるかどうかはともかく。柘彦さんがどういうつもりなのか、本心からこの状況を納得してるかどうかは知っておいた方がいいとは思うけどね。それでやっぱりこれでいいんだ、って結論になればそれはそれで仕方ないんだし」
「…うん」
わたしは迸るお湯をきゅっ、と止めて両手の水気を拭き取りながらしばし考えた。
澤野さんの言ってることは正しい。彼がどうしてあの人と結婚しようと決めたのか。そこにどんな意図があるのか。
本当にそれが彼の本意なのか。何か強いられたことがあるとか、それとも諦めからなのか。もちろん彼女のどこかに突発的に惹かれたって理由でもいい。彼のほんとのところがわたしは知りたい。
そんなことを訊いても多分誰も救われない。彼はもちろん、わたしだって少しもましな気持ちになるとは思えない。それでも、多分腹蔵ない柘彦さんの真意を問いただせる機会はおそらく今しかないだろう。
例えそこで提示される回答で誰一人、幸せにはなれなかったとしても。茫漠とした謎の中に全部をごまかして抱えたままでいるよりは諦めがつくかもしれない。
わたしは俯いて手拭きタオルをかけ直し、ぼそぼそと澤野さんの方を見ずに小さな声で答えた。
「…今日、このあと。柘彦さんの都合が悪くなければノマドを預けに行くときに。訊くだけでも訊いてみようと、…思います」
こんなに心臓がばくばくと暴れるのを感じるのは久しぶりだ。
何かを感じ取ってるのか、腕の中のノマドが不思議そうにわたしの顔をしきりに覗き込む。猫って人間のこと理解できないなんて嘘だと思う。こっちの心の波や動揺や喜びをこの子たちは敏感に感じ取ってるって実感がある。言葉を交わすことはできないけど、ノマドがわたしの怯みを察知して不安に思ってるのははっきりと伝わってきた。
大丈夫だよ、と囁いて彼女の頭を優しく撫でて温かい身体を抱きしめて深く息を吸って、吐いた。落ち着かなきゃ。
どうせ明日起こることはわたしなんかの力じゃ変えられない。だったらせめて、彼が何を考えてこの選択をしたのか。それだけでも知って、納得しておきたいだけなんだ。
どきどきしながらいつものようにノックをすると。中から柘彦さんの声が『はい』と返ってきた。
「あの。…わたしです。ノマドを」
一旦言葉を切って、しばし考えてから結局付け加えた。
「ちょっとでいいんですけど。もしお時間あれば。…お話が」
『あ、…はい。それは。…大丈夫です』
一瞬考えたような間があった、ような。やっぱりわざわざわたしなんかに時間を割くの嫌かな。明日は大事な結納の日だし。もしかしたら今日は普段より早く寝るつもりなのかもしれない。
ドアを開けて顔を出した彼に向けて、わたしは弁解するように早口で付け加えた。
「あの、早めに終わらせますから。長く時間を取るつもりはありません。…ただ、少しだけ。久しぶりにお話でも、と」
「いえ。もちろん歓迎です。…あなたの方から言い出して頂けなければ。こちらからお誘いしようと思っていました。コーヒー、お淹れします」
彼の態度は以前と全く変わらない。わたしはどこかほっとして、失礼しますと小さく呟いてノマドを抱いたまま室内に足を踏み入れた。
こっちは久々だが、猫の方は普段通りの勝手知ったる部屋の中だ。あっという間に腕の中からするりと飛び降りて、足早に彼に駆け寄りすりすりと足許で甘えた。
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