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「コーヒー。久しぶりにわたしが淹れましょうか?」
脚にノマドをじゃれつかせたままマシンの方へと向かう彼の背中へ声をかける。柘彦さんはこっちへ顔だけ向けて静かに首を横に振った。
「いえ。座っていてください。あなたはお客さまですから…。何だかずいぶん久しぶりですね。ここであなたとコーヒーを頂くのも」
「は。…すみません」
まさか結婚してしまうあなたと顔を合わせるのが心苦しかったから。なんて言えるわけない。もごもごと濁してるわたしの方に背中を向けて、ぽつりと彼がこぼした言葉。
「…おかげでここのところずっと。長いこと、コーヒーの味も香りもしなくて…。どういうものか、忘れかけてました」
「…はい?」
こっちに聞かせる気がほとんどないような、抑えた小さな声。コーヒーマシンが本格的に沸き始めたタイミングだったら間違いなく聞き逃していた。
そういえば、以前も言ってたな。コーヒーの味がするとかしないとか。
あれも今ひとつよくわからなかった。最初はわたしが淹れたコーヒーの方が味が濃い、って話だったように思うけど。結局サンルームのコーヒーマシンのせいでもわたしの腕のおかげでもなく、この部屋のマシンで彼が淹れたコーヒーでもちゃんと味が美味しくなった、って落ちじゃなかったっけ?
あのあとそこはどうなったのかな。結局彼が無意識に長年患ってた味覚障害がなんかの拍子にふと治った。ってそういう話だったのか?
今ひとつ腑に落ちないまま首を捻ってるわたしに、彼はコーヒー豆をセットしながらそれ以上説明をせずに声をかけた。
「どうか座っていてください。ごゆっくり寛いで、どうぞ」
「だけど。…明日はお忙しい、ですよね?」
「ああ。…いえ」
指摘されて思い出した、みたいな曖昧な声。そうだよね。
わたしは椅子に腰掛けて膝の上に置いた拳をぎゅっ、と握った。わたしの思い込みとか、何かの間違いじゃないんだ。ほんとにこの人、明日結納なんだ。
何だか悪い夢の中にいるみたい。朝起きて、ああ、彼が結婚するなんて。変な夢見ちゃった、と苦笑いで終われたらよかったのに。
…こぽこぽ、とマシンからドリップされたコーヒーが落ちる懐かしい音。セッティングを済ませた彼がノマドを抱いてこっちに戻ってくるのが見えて、慌てて表情を整えた。
「あの。…お祝い言うのが遅れて。おめでとうございます、…このたびは」
彼の方に顔を向けられず下を向いたままぼそぼそと伝える。不服に思ってんのかって受け取られるな、と危惧がないこともないけど。
目の中を覗かれる方がよほどやばい。それくらいならガキっぽく拗ねてるって解釈される方が何百倍もましだ。
「いえ。…ありがとうございます」
当たり前だけど平静なその声はいつも通りだ。もちろん何の感情も伺うことができない。
そりゃ、わたしだって彼に限って結婚を控えて上機嫌のうっきうきでにこにこしてるだろうと予測はしてなかったけど。それでも面と向かえば何らかの思いが読み取れるかなと思ってた、かもしれない。やはりこの人、そう甘くはない。
にゃう〜、と嬉しそうに鳴くノマドの喉を優しくくすぐるそのきれいな手。わたしは一瞬だけうっかり箍が外れて決壊してしまった。
「もう、こうやってここでコーヒーをご一緒もできなくなるんですね。…柘彦さんがご結婚されたら」
「…すみません」
ぽつりと返されたその言葉に打ちのめされた。やっぱり、そうだよね。
余計なこといちいち口にするんじゃなかった。
奥さんのいる男の人の部屋に夜、訪問しようなんて。中でただお茶飲んでるだけでも藤堂さんは知ったらいい気持ちしないだろう。そんなのごく普通の常識だよね…。
「僕がどうとかあなたは気にかける必要はないですから。今のまま、いつまでもここに住んで頂いて大丈夫です。就職してここから通えなくなるか、あなたの結婚が決まるまではずっと。この館にこのままいて下さい」
突然きっぱりと言い渡されて戸惑う。
「え、まあ。…でも、奥さまがそれでよければ。ですけど」
一度だけ目にした呉羽さんの姿がちらと脳裏をよぎる。あんなハイスペックなお綺麗な人が、わたしみたいなちんけな家なし子を気にかけるとは正直思ってはいないけど。
そこはその人それぞれの考え方なので。二十歳そこそこの女子が図々しくも夫の身近で同居してる、と受け止める向きもあっておかしくないし。
ただの住み込みの下働きでしょ、と度外視してくれれば何の問題もないが。夫の半径百メートル以内に若い女がいるだけで何だか不快!って新婚のうちは感じるかもしれない。
彼はどこか柔らかみのある声でわたしに告げた。
「それは心配ないです。今後とも、あなたが完全に自立できるまでここで生活の全てをフォローできるように、と。それは結婚するに当たっての条件として提示しました。もちろんお相手の方からも茅乃さんからも、それは最初から全く異議は出なかったですけれど。あえて反対されるようなことでもないですしね」
彼がいくつか結婚を受け入れるための条件を出した、って茅乃さんが言ってたような。わたしはどこか実感なくぼんやりとその台詞を思い返していた。
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