エピローグ 千章

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エピローグ 千章

「あ、忘れもんした」 「おう、早くしろよー」 靴を片方脱いで、効率の悪いケンケンで部屋に戻る佑真を、鼻でため息をついて見送る。向かいのアパートの出窓の上に、数センチ白いものが積もっているのが見えた。雪の日は、昼でも深夜のように町全体がひっそりと静まり返るのはなぜなのだろうか。 去年も見た景色だけど、今年は佑真がいるから違う景色に見える、なんてことがあってたまるものか。誰といようと見慣れたものは変わらない。相変わらず、冬は苦手だ。かといって夏は死にそうなほど暑い上に蚊が出て不快だし、春は花粉がウザいし、梅雨はジメジメして気が滅入るし、秋は自分の誕生日があるから嫌いだ。 つくづく嫌な国に生まれてしまった。でもまあ、これからはそんなことに気を取られるまでもないほど、年中暑苦しいやつが隣にいるわけで。悪くない、と思ってしまったことは素直に認めよう。すると突然視界に、ふわりとオレンジ色の靄がかかった。 「ほら、忘れもん。これしないと冷えますよ」 ぐるぐると大判のマフラーを巻かれた。それだけで、体全体がぽかぽかとした暖かさに包まれたような錯覚に陥る。 「おう、サンキュ」 「行きましょっか」 差し出された手は分厚くて、温かい。 嫌じゃない。手を繋ぐことも、優しくされることも、寒いのも。 コーヒーに溶けるミルクのように、吐息が靄のように空気に混ざっていく。 俺はあの頃、賭けに負けてトラックに遭遇しなかったから、今もこうしてせっせと二酸化炭素を排出している。 地球にとっちゃ迷惑かもしれない。でも近頃は、俺のことをキモイと言うやつがいようと、どんな扱いを受けようと、生きてやろうという胆力が備わってきたように思う。 雑草の心が、この俺に芽生えたのだ。どこから飛んできた種子なのかは火を見るより明らかだ。しかし雑草ならば、少しは酸素を振りまいて、世のためになることをしなくてはならない。 そうだ。小説を書こう。俺にはそのくらいしか能がないんだから。今なら、描けるような気がした。今度は信頼に足る語り手で、恋愛小説でどちらも死なずにハッピーエンドで終わる話にしてみようか。そうしたら、佑真は調子に乗って訊くだろう。 『これ、俺たちの話っすか?』 「思い上がんなよボケ」 そうは言いつつも、この手から伝わってくる温もりを、早く言葉に乗せてみたくてうずうずしてきた。 「ん、何か言いました?」 「何でもねえよ」 この感情を、どう表現するべきか。温かくて心地よい時もあれば、危険なほど身を焦がす時もある。人は皆、火傷だらけでいきているのかもしれない。 だとしたらもう、書き出しは決まっている。 「恋とは、触れたら爛れそうで、熱く、脆い。しかし男は、その灯に救われた」 完 (作者より)この作品と出会ってくださり、ここまで読み進めて下さり、ありがとうございます。拙いながら、これからも物語を生み出していきたいと思っていますので、何卒よろしくお願いします。 評価、Twitterのフォローなどもお待ちしております。感想やスターなど、一つずつ本当に嬉しく頂戴しています。本当にありがとうございます。 (追記)スター特典「忠犬と冬猫」が追加されました。この作品を少しでもいいなと思ってくださった方、ポチリとスターを投げていただき、あと少しだけ佑真と千章にお付き合いいただければと思います。
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