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「おーい佑真、十番行こうぜ」
「わりい。今日俺行くとこあって」
「まじかよー」
サークル終わり、恒例のラーメンの誘いを泣く泣く断り、俺はマップに示された店へと向かった。
その喫茶店「カトレア」は、霊感のある人なら眉をひそめそうな暗い路地に、一軒だけ風格ある佇まいで建っていた。
「失礼しまーす」
ドアを開けた途端、カランカランと鳴った音が思いのほか大きくて、思わず縮こまる。
おそるおそる顔を上げると、意外と中が開けているのに驚いた。常連らしき客が二、三、静かにコーヒーを啜っている他に音はない。しかしそれでいて、古い喫茶店特有の人を寄せ付けない緊張感はまるでなかった。
昔から知っている場所のような、心地よい空気に、珈琲豆を焙煎するにおいが漂っている。
そして奥のカウンターの後ろに、その人の姿はあった。戸棚を整理する長身の若い店員。その人が振り向いた時、閉じていくドアが乾いた音を奏でた。
今度は控えめに、カランコロンと。恋に落ちる音があるなら、こんな音に違いない。俺はその時とっさにそう思った。でも今考えれば、それはまごうことなく、俺が恋に落ちた瞬間だったんだと思う。
千章さんは俺を一瞥して、お好きな席へどうぞと、店員然とした態度で接した。どぎまぎしながらも、千章さんの対角にあるカウンター席に腰かける。想像してたカフェとは全然違う。これだったらコミュ力がなくても大丈夫そうだ。
改めて目の前の青年を目の端で観察する。生成りのシャツも栗色のエプロンも、この人のためにあつらえたかのように画になっていた。明るい色の長い髪は、無造作に束ねられていて、すっきりした輪郭が薄明りに映えていた。こんなにきれいなのに、普段髪に隠れているのはもったいない。
同時に、こんな人が不特定多数の人の前に晒されて労働していることが、無性に悔しく、不安になった。目の前のカウンターには理科の実験用具のような変哲な器械が並んでいる。そのうちの一つに、目を惹かれた。
「それはサイフォン。コーヒーを淹れるための道具」
いつの間にか前に立っていた千章さんが、初めて見る柔らかい表情で話しかける。俺が声を出せずにいると、千章さんはまた店員モードに戻って、ご注文は、と尋ねた。
「えっと、ホットココアで」
千章さんは、かしこまりました、と恭しくお辞儀をした後、俺にしか聞こえないくらいの声で、コーヒーも飲めないくせによく来たな、と言って含み笑いをした。それから作業をしながら俺に話しかける。
「植村くん、だっけ。誰かに教わってきたの」
俺はまさか自分の名前を認知されてるとは思わなくて、上ずった声で答えた。
「す、鈴木先輩です」
「すずき、すずき……あー、眼鏡か。そういえば言ったか……」
独り言のように千章さんがぶつぶつ言うから、俺は何を言えばいいか分からなくなった。そして眼前の見慣れない景色をひたすら眺めた。ここがこの人が長い時間を過ごしてきた世界だ。
サイフォンと教わった道具の横には、見たこともない酒の瓶がたくさん並んでいる。その中の一つに、また目を奪われた。透き通る朱色に似たレッド。瓶の後ろに移る千章さんが映える色だと思った。その瓶を食い入るように眺めていると、千章さんが、ここ夜は酒も出すからな、と言った。
「これどんなお酒なんですか」
「カンパリ。多分お前が思ってるより、苦いよ」
おまえ。
俺はたぶん、生まれて初めて、お前と呼ばれて嬉しいと思った。
「もう、酒飲めるんだっけ?」
「は、はい。まぁ合法的に飲めるようになったのは、つい最近っすけど」
「そっか、若いな」
千章さんはおっさんみたいなことを言って、ココアをカウンターの上に置く。俺は急に、自分が頼んだココアが恥ずかしくなった。
「そういえば、なんかあって来たの?」
「あ、えーと、昨日のゼミで、どうしてもわかんないことがあって」
どうしてそんな嘘をついたのか分からない。千章さんがちゃんとバイトできているか見に来た、なんて言えないにしても、もっとマシな言いようがあっただろう。
俺は昨日のゼミで何をやってたかすら曖昧ってレベルなのに、ボロが出たらどうするんだ。千章さんは、顎の下に手を当てて、ふーん、と吟味するみたいに俺を眺めて、思いついたように言った。
「あと一時間でここ閉店だから、うち来たら?」
「いいんすかっ?」
「声、でかい」
「よく言われます……」
そうして俺は、初めて人を好きになった日に、その人の家に上がり込むという、俺の人生史上初の大躍進を見せた。
千章さんの家はバイト先から近いからすぐだ、と言っていたのに、ビールとカートンのタバコを持たされた挙句、結局二十分も歩かされた。
坂を何度も登った先の、お世辞にもきれいとは言えない風貌のアパートの一室が、その人の住処だった。
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