第一章 佑真

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「お邪魔しまーって、広っ! 本棚でかっ!」  千章さんは、ふふっと心持よさそうに笑いながら、机の上を整理する。 たくさんの本と紙と吸い殻が、細い指によって手早くまとめられていった。  一面だけ青い壁紙が貼ってあるダイニングには、デスクトップのパソコンがあって、その上の本棚にはぎっしりと本が詰まっていた。哲学、純文学、歴史、ノンフィクション、ざっと見ただけでも持ち主の守備範囲の広さがうかがえる。   『文学部なんて女が行く所だ。男なら商学部か法学部へ行け』    俺が付属校での成績が悪く、推薦枠で人気のない文学部しか選ぶ道がなくなった時、親父が繰り返し言った言葉だ。  昔からモラハラ気質で、酔って帰れば俺の勉強の邪魔をして文句をつける、俺はそんな父親が嫌いだった。確かに文学部は行きたくて選んだ学部じゃないけれど、そんな前時代的な価値観を押し付けられるのは御免だった。  そんな親父は千章さんのこの本棚を見ても、同じことを言えるんだろうか。豊富な語彙力と説得力で自分の世界を語る姿を見ても、同じことを思うだろうか。  千章さんは片づけを終えると俺を椅子に座らせて流しに向かう。 「散らかってて悪いな。今コーヒー……じゃなくて麦茶入れるから」 「あ、はい!」  コーヒーも甘くすれば飲めるんだけどな、飲めないと思わせたことで気を使わせてしまったかな、と少し心配になる。千章さんは何を考えているか分からなくて、それが少し怖い。  これからこの人のテリトリーに入って行ってもいいのだろうか、と、土足で室内に入るのを躊躇うようにその場で止まっていた。   「で、嘘だよな。わかんないとこがある、なんて」    まさか見通されていたとは。恐れ入る。この人に嘘をついても通用しない、と悟った。  その瞬間、俺と彼の力関係が定まって、もう動かないものになったんだ、と俺は何となく確信した。 「そうです……。すいませんっした」 「君、教授や他の学生が言うことなんて聞いてたことないだろ?」 「……はい」 「じゃあ、俺に会いたくて、来てくれたんだ。わざわざ」  俺は肯定も否定もできなくて、ただ下を向いた。本当のところは図星なわけだけど。バツが悪くて、もう喉は乾いてないのに麦茶を口に含む。  そして言われた台詞を反芻して、千章さんってなんか、少年漫画に出てくるエッチなおねーさんみたいだよな、と思う。 「植村くんってさ、童貞?」 「っゲホッゴホ、ぃゲホ……」  盛大に吹き出したせいで、俺のTシャツはびしょびしょになった。千章さんは、アメリカの子供向けアニメかって動きで慌てる俺を、他人事みたいに涼しい顔で笑っている。  やっぱりこの人は、エッチなおねーさんで、悪魔だ。 「ごめんごめん。聞くまでもなかったな」  涙ぐむ俺の顔をタオルで拭う千章さんの手は、泣いている子供をいたわる時のように優しかった。そしてそのままその手は、触れた俺のシャツを魔法のようにはがしていった。 「えっ……」 「ほら、おいで?」  千章さんは部屋の真ん中に置いてある少し広いベッドに腰かけて、自分の隣を、とんとんと叩いた。いざなわれるまま、半裸の俺はそこに座る。するとその瞬間、世界はぐるりと回った。    だめだ、今日は色んなことがありすぎる。もう容量がいっぱいですと、俺の中のメモリが悲鳴を上げている。  しかしそんなことは構いなしに、千章さんは硬直して動けない俺の首筋に、柔らかい唇を押し付けては、少し音を立てて離す、を繰り返して、少しずつ位置をずらしてくる。そして耳元に来ると俺の耳たぶを唇で挟んで、ちろりと舐め、吐息で囁く。 「力、ぬいて」 「ひゃっ、……はい」 「いい子」  千章さんのキスは、思いのほか男らしかった。柔らかい舌が無遠慮に侵入してくる。その形を自分の舌でなぞると、かすかにコーヒーの味がした。コーヒー味のふにゃふにゃのキャンディみたいだ。ぺろぺろとその形を確かめると、ふわりとかわして別の形に変化する。まるで飴が溶けてなくなるように。  千章さんは、右手で俺の髪を優しく撫でながら、左手で俺の下半身を急かすように激しくなぞる。この人がピアノを弾いたらさぞ上手いんだろう、などと余裕をもって考えられていたのは、ほんの序盤までだ。  何しろ俺にとって、こんなことは全部初めてで。触られたことのない領域に入ってくるのが、こんなにきれいな人で、男で、年上で、強引で、みだらで、今日好きになった人で。何もかもがイレギュラーだ。でも〈いい子〉の俺は、力を入れないようにできる限り我慢をした。  俺の口腔から脱した千章さんの舌が、何の前触れもなく右の耳殻をなぞった時、自分でも聞いたことのない声が漏れた。 「っひゃ……!」 「ん? 素質がありますねぇ、こんな声出せるなんて」  ここで急に敬語を使ってくるあたり、恐ろしい。この人は変態なんだと思った。でもその人に弄ばれて悦んでる俺も、さしずめ同類だろう。  千章さんの長い左中指が俺のボクサーパンツのゴムを浮かせる。ブランド名の英字の刺繍の裏を一周すると、いきり立った性器が顔を出した。  湯気が立ちそうなほど熱く、湿度が高い。思わず顔を背けようとすると、頭を右手で掴まれて、今度は優しく、口づけられる。思わず浮きそうになる下半身の、一番来てほしいところに、千章さんの左手が吸い付くように触れる。一番いい力加減と速度で締め上げられると、快感の束が細い管をせり上がってくるのを感じた。情欲に身を任せそうになると、千章さんの手が止まる。 「今、イこうとしただろ。だーめ」  千章さんが俺の上に馬乗りになる。ズボンと下着を外すと、整えられた陰毛と、彫刻のように均整の取れた性器が露になった。 あぁ、俺は掘られるんだ。  そう察した。まさか初体験をこっちで済ませることになるとは思わなかった。中学生の頃の自分に教えたら、卒倒するんじゃないか。でも俺はさっきまでのキスと愛撫ですっかり気を呑まれてしまっていて、この人になら、捧げちゃってもいいかな、なんて思っていた。  しかし千章さんは、硬くなった俺自身を手にとると、自分の後ろにあてがって、ぐりぐりと押し込むように馴染ませた。そのまま腰を沈め、ずぶずぶと千章さんが俺を呑み込んでいく。 「んっ……、はぁ……きついな」  えっ、俺、千章さんの尻に挿れてる……?  これも、襲われる、に入るのか? その状況を整理するのに、数秒を要した。温かい粘膜に包まれ、全方向から強く締め付けてくる。自分以外の人間の脈動を、こんなにもはっきりと感じる。これが、繋がるってことなのか。  千章さんの長いくせ毛が、紅潮した顔に張り付いている。その顔には、ゼミの最中の退屈そうな表情からは想像もつかないほど、生気に溢れとろけそうな気色が浮かんでいた。   痛みなのか快感なのか、目は緩み、紅く揺れて、ひどく艶めかしい。苦悶の表情を浮かべながらも、本能のままに快楽にすべてを委ねている顔だ。その姿は、発情期の獣を彷彿とさせた。   「はぁ……ん、ん、悦いっ、きもちいぃ……」  なんてエロい声で鳴くんだろう、と思った。普段の落ち着き払った地声とも、先ほどまで俺を言葉責めで弄んでいた時ともまた違う、快楽に従順な擦れた声。俺は初めて、男の声で激しく欲情した。吐息混じりの声がなやましい気色を帯びるたび、俺の竿から先走りが漏れてしまう。 「っく……やばいっす」 「あっ、んん、……っ」  千章さんは、俺の唇を貪るように吸い上げ、呼吸を乱す。その間も、もっと強くつながった粘膜は擦れ合っている。千章さんの好きなタイミング、好きな角度で繰り返し、打ち付けられ、片時も止まらない。  その度に接合部からは、ぱしゃっ、ぴちゃっと淫靡な音がして、更に俺の想像を掻き立てた。  もっとこの人を鳴かせたい。もっと余裕のない表情を見たい。俺は千章さんの細い体を抱きかかえて押し倒し、角度をつけて激しくピストンを始めた。さっき自ら執拗にこすりつけていた部分、きっとここがこの人の悦いところだ。そこに狙いを定めると、少しひっかかりを感じた。 「あぁっ、やめっ、そ……こ、んんっ!」 「ここ、ですよね?」 「んっ……あっ、いやっぁあ……!」  千章さんは柔らかい枕に横顔をうずめて、激しく体をよじらせた。俺がその顔をよく見ようとすると、火照った顔を更に赤らめて視線を逸らす。今更恥ずかしがったって無駄ですよ。そう言う代わりに、しゃかりきに腰を打ち付けていく。  何が正しくて、どうするのがいいのかなんて分からない。だから己に宿る、暴発寸前の野性に全てをゆだねることにした。 「あっ、……はあぁ……ああっ!」  高まるにつれて惜しげもなく繰り出される嬌声。そして反比例するように恥じらいを見せる表情。その矛盾に俺は、かつて抱いたことのない興奮を感じた。 「もぅ……、イっちゃう……からぁ……」 「これ、だけで……?」 「くっ……、んっ、イくっ……!」  一度も触れていないはずの千章さんの性器がびくっ、びくっ、と規則正しく持ち上がる。とろとろと白濁した液体が、白い腹の上に排出される。俺は他人が射精するところを初めてまじまじと見た。  他の人のなら萎えそうなものだけど、今はただ、千章さんが俺の動きだけで気持ちよくなってくれたことが嬉しかった。もう感情の制御が効かなくなる。もう俺の限界もすぐそこだった。 「俺も……出しますっ……!」 「んっ、ナカ、きて……?」  その甘えるように上がる語尾が耳に届いた時、俺の理性は完膚なきまでにとろかされた。  激しく呼吸を乱しながら絶頂に達する。  気持ちいい……。  セックスってこんなに気持ちの良いものだったのか。なるほどな、と俺は達観した視点で思った。こんなことを古今東西の先達は経験していたのか。こうやって、子供ってできてくんだな。あ、でもこの人とじゃ子供はできねえのか。  俺が生命の神秘に一人思いを馳せている横で、千章さんはすっかり事が始まる前の涼しい顔に戻ってタバコを咥えていた。  吸っていい? と聞いてくるけど、もう完全に吸うつもりじゃねえか、と心の中で悪態をついた。どうぞ、と答えると間髪入れずに火をつける。 吸い込んだ煙をしっかり肺に取り込み、ふぅー、と深く煙を吐く。ベッドの周り一帯がもやもやと副流煙に包まれた。  これが千章さんの生活を取り巻いているにおいか。すーっと取り込んでみると、見事なまでににむせた。 「ちょ、だいじょぶ?まじ、無理なら言えよな」 「ゴホいや、ゲホゲホ、ぃんでゴホゴホ」  千章さんは慌ててタバコをもみ消すと、笑いをこらえながら俺の背中をさすった。呻吟から解き放たれる中で俺も苦笑いをする。 「ケホっ、水っ……」 「もう、また吹き出すなよ」 「それ、……フリっすか」 俺が苦しい顔のまま笑うと、千章さんもふっと表情を緩めた。 好きだ。この人が猛烈に。 「俺、今日初めてこんなことになって……変かもしれないけど」 この気持ちを、今伝えないと後悔する。 「千章、さんのことが……好きかもです。てか、もう好きです」 千章さんは、眉一つ動かすことなく吸い殻を強く陶器の底に擦りつけた。 「そう……」  その横顔は、何かに怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。俺が期待するような答えなんて、多分一生返ってこない。  この部屋だけが、現代日本とは隔絶された世界で、千章さんだけがその世界の住人であるかのような錯覚に陥った。そしてきっと千章さんは、そんな遠いところに、自分から身を置いて扉を閉ざしてきたのだ。  その日から、俺は幾度となくその異世界へと招かれて、千章さんの気の向くままにセックスをした。それでも俺は結局千章さんの人生の脇役でしかなく、その横顔や背中をうっとりと見つめることしか許されていない。  二十歳。触れたら爛れるような恋愛が始まった。でもいつまで経っても、俺とその人は、恋人にはなれないでいる。
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