第二章

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第二章

梗太郎の家は思ったよりもずっと狭かった。寺子屋のスペースを入れて宮城の俺の家の半分くらいの大きさで、部屋らしい部屋は一つしかない。今日からここに置かせてもらうのだと思うと、それに見合った働きを見せなきゃ、とプレッシャーに拍車がかかる。 でも当の梗太郎は特に気にする様子もなく、俺に自分の服や下駄を貸してくれた。ほとんどがオーバーサイズの梗太郎の服を着ると、どうしても彼シャツ感が出てしまって照れる。 「子供らが来る前に、菖蒲の身なりを整えなくてはな」 そう言うと梗太郎は、行きつけの銭湯に俺を案内した。銭湯の入り口が異様に低いことや、午前中なのに思いのほか人が多いこと、銭湯の上の階で遊んでいる人がいることなど、驚くことが山ほどある。梗太郎の後を金魚のフンよろしくついて回って、細かい仕草まで真似をした。 俺の身なりと挙動がよほど不審なのか、常におっさん達からの視線を感じる。でも長襦袢にぼさぼさ頭で市中を歩いたことを思えばもう怖いことなど何もない。それに今の俺には最強の用心棒がついている。いざとなったらあの迫力で守ってもらうんだ、と虎の威を借りる狐になり切ることにした。 「お前の前髪は長いから束ねてしまおう。鏡の方を向いてみろ」 そう言われ、素直に従うと目にかかった前髪を指ですくわれた。その指先の繊細な動きに、体が小さく反応してしまう。 机に置かれた小さい鏡は、曇っている上少し歪んでいた。それでも鏡に映る洗い髪姿の梗太郎は、まさに水も滴る色男だ。思わず見惚れていると、虚像の目と目が合って慌てて視線を外した。 梗太郎が風呂敷から小さな箱を取り出す。中には固形の物体が入っていて、最初に彼に近づいた時と同じ匂いが漂ってきた。 「これは?」 「鬢付け油だ」 「すごくいい匂いがする」 「左様か?お前は妙なことを申すな」 油を体温で溶かした手が、俺の髪を撫でつける。固めた前髪と一番長い後ろ髪をまとめて、梗太郎が噛んでいた紐で結わいていく。おでこを出したことはほとんどないから、何だか落ち着かない。でも、彼の手でこの時代の人に染められていくようで、悪い気はしなかった。 「上手いもんだなぁ」 「次からは自分でやれるようにしろよ」 「えー、毎日梗太郎にやってほしいな」 「たわけ。わがままを申すな」 「じゃあ、俺も梗太郎の髪を結うよ」 「できるのか?」 なめてもらっちゃ困る。俺はこれでも、百合が幼稚園児の頃は、毎日変わる希望に添って髪を結んでやっていたんだ。 「もちろん。ほら、場所交代して」 真直ぐで黒い梗太郎の髪をくしで丁寧に梳かしていく。百合が好きだったアレンジは、ハーフアップでお団子だった。高いところにキャラクターのゴムで留めてやると喜んだっけ。百合は今頃学校で遊んでるだろうか。 「おい、菖蒲。大丈夫なのか?」 数分も立たないうちに、ハーフアップお団子に着流し姿の侍が完成した。 「あっははは、似合ってる、似合ってる」 「これは……」 「すげーいいと思う」 お世辞じゃなく、本当に様になっている。きっと短髪にして染めたりパーマをかけたりしたら、もっとポテンシャルを発揮できるんだろうな。梗太郎が原宿とかの美容院で「ざんぎりで頼む」とか言う姿を妄想したら、思わず吹き出しそうになって必死に抑えた。 「菖蒲がそう申すならこのまま行こう」 梗太郎はサラサラと髪をなびかせて銭湯を後にした。俺はまだ、この男のことを全然知らない。でも分かったこともいくつかある。無意識にカッコつけてる割に、こっちから距離を詰めると照れるってこと。見た目に反して天然で素直だってこと。もう少しこの人のことを知るまで、ここにいてみてもいいような気がした。ノーパンでスースーする下半身にも、いつか慣れるだろうか。俺は江戸の地面をしっかりと蹴って、大きな背中を追った。
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