第三章

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その晩、二人で市場に寄って、安かった野菜と魚を買い、それで夕餉を作った。本音はやっぱりビッグマックをコーラで流し込みたい。でも明治時代になれば、牛鍋が食べられるはずだから、もう少しの我慢だ。そう考えて、自分の思考回路が帰らない方向にシフトしていることに驚いた。この変化は紛れもなく、目の前の男のせいだ。 「じゃ、いただきます」 「いただきます」 まさかこんなに首尾よく思いが通じるなんて、愛宕山に行くことを提案した勇吉ですら思っていなかっただろう。すんなりと行ってしまいすぎて恥ずかしいくらいだ。 とはいえ、恋人になったという感覚は正直あまりない。そもそも江戸時代に両思いになったら付き合う、という文化があるのかも微妙なところだ。出し抜けに、梗太郎が神妙な面持ちで切り出した。 「後の世から来たお前に、問いたいことがある。よいか」 「うん。俺で分かることなら」 「これから、この世はどうなる?」 そうか。そりゃ、気になるよな。俺だって未来人に会ったら、いの一番に尋ねるだろう。 「お上はそのまま続くのだろうか」 「おかみって?」 「徳川のことだ」 「ああ、それなら十五代で終わって明治時代に……」 「終わる⁉ 十五代で!」 「えっと、その、将軍が殺されたりとかはなかったと思うから、安心して」 しかし梗太郎から不安げな表情は読み取れない。むしろ不謹慎な話をするつもりなのか、急に声を潜めた。 「あと二代で、将軍家は何ゆえ絶えるのだ。その後はどうなる?」 つられて俺もボリュームを絞る。 「確か、幕府に逆らう人達が勝って、政府ってのが生まれるんだ。それで鎖国は終わり。しばらくしたら外国と戦争したりするはず」 「ならば、菖蒲は蘭語やエゲレス語が話せるのか」 「ん? えげれす……? 英語なら、ちょっとだけできるよ。ビークワイエットエブリバディ、ドンビーソーノイジー」 「すごいな。菖蒲は」 「違う、違う。誰でもできるよ。寺子屋みたいなところがあって、学校っていうんだけど、どんな子供も全員そこに行くんだ」 そう話した時、明らかに梗太郎の目が輝いた。興奮気味に質問を連ねる姿は俺にとって新たな一面だった。 「鎖国が解けると申したな。船で他の大陸へも行けるのか」 船以外の交通手段を知らない梗太郎に飛行機を見せたら、鉛の塊が飛んでいると驚いて失神するかもしれないな。「空を飛ぶ船があって、十時間もあればアメリカに行けるよ」 「菖蒲。嘘をつくにも程度というものが……」 「ほんとだってば。全部電気……エレキテルで動くんだぜ」 「……信じられない」 笑いそうな表情から、やがて真剣さが滲み出て、梗太郎が纏う空気が変わる。 「しかし、確実に我々は、正解へと近づいていたのだ」 その目の色は、初めて見るものだった。なにかまだ見ぬ物へ期待を膨らませて、見返りも求めずにただ突き進む強い野心。それは現代の若者には無いものだと思った。梗太郎は、俺よりかなり年上だけど、持っている感覚はある意味でずっと若い。こういう活力を、俺達はいつから失くしてしまったんだろうか。 「我々は、幕府を倒して、西欧諸国と対等に渡り合える国にしたいと思っていた。この狭い島の中だけで暮らす時代はもう古い。俺はもっと広い世界が見たいのだ」 梗太郎を突き動かしていた力の正体は好奇心だったんだと知り、少しだけ安心する。俺は少しの間、目を閉じた。その一方で、その崇高な理想が梗太郎を奪い去ってしまうのではないかという新たな不安が胸をよぎる。 「じゃあ、会合って、それのための……」 「そうだ。不安な思いをさせたな」 「ううん。でも、もう危険なことはやめてほしいんだ。梗太郎がやらなくてもきっと、歴史は変わらないし……」 「それは違う」 優しい声とは裏腹に、ぶ厚い掌が俺の手首を力強く掴んだ。 「菖蒲は、俺が動いたからそうなったとは思わないか」 俺が知っている歴史は、偶然の積み重ねの上に成り立っている。つまり俺がここで梗太郎を止めたら、未来が変わってしまう可能性は確かに存在する。 「でも……」 俺には、やっとできた大切な人が、歴史の歯車の一つとして使い捨てられるのを見て見ぬ振りするなんてこと、できない。 「たくさん人が死ぬんだよ」 坂本龍馬とか、西郷隆盛とかもそうだ。梗太郎には、そんな危険なことに巻き込まれてほしくない。だからもう、侍はやめろと言いたかった。 「何かを変えるには、犠牲がつきものだ」 犠牲という言葉を放つのは容易い。でもその中には、たくさんの命が詰まっている。俺が軽率に未来を語ってしまうことで、もし失われる命が増えたらと思うとぞっとした。 「俺は……、梗太郎に死んで欲しくない」 「そんな顔をするな。器量よしが台無しだ」 「っ! またお前は……」 強張っていた梗太郎の表情が、やっとほころんだ。握ったままの指が優しく俺の肌を撫でる。 「案ずるな。命を粗末にするようなことはしない。俺も生きて、理想の世界をこの目で見たいからな」 「……約束して」 「約束する。だから菖蒲も、約束してほしい。突然俺の前からいなくなったりしないと」 「するよ。絶対、いなくなったりしない」 梗太郎の指がゆっくりと俺のこぶしを広げて、小指を自分の小指と絡ませる。この約束を守らなかったら、絶対に針千本呑ませてやるからな。爪痕が残るほど強く、梗太郎の小指を握りしめた。
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