第三章

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「じゃ、買い物行ってきます!」 「頼んだぞ」 家から出たところで、梗太郎の家と隣家の間の路地裏に、黒い影が動いたのを見た。咄嗟に追いかけると、その男は向こうの路地へ抜けていく所だった。『かさ地蔵』に出てくるような傘を頭に被った、怪しい風体の男。不審に思ったけれど、危害を加えてくるように見えなかったので、そのまま市場に向かった。 青物を一通り買って、残りは豆腐だけというところだった。普段は目を留めることなどない、浮世絵を売っている店を通りがけに眺めていた。ふと店頭に飾られた中の一枚が視界に入り、思わず叫びそうになった。というか、もう声が出ていた。 「スカイツリーだ」 腰のあたりから首筋まで、寒気が一気に駆け上る。江戸の名所を描いた浮世絵の中に、俺がずっと登りたかった東京の名所が描かれていた。大雑把だが確実にそれと分かる、鉄骨の形。それは紛れもなく東京スカイツリーだった。 「これ、描いた人って誰ですか⁈」 食いかかるように店番の女性に尋ねる。相手は俺の剣幕に動揺しながら答えた。 「えっ……、歌川国芳ってじいさんだよ。これは随分前の絵だけど」 「その人に、どうしたら会えますか」 「弟子入り希望かい? もう相当歳だし、取ってないと思うけど」 「いえ、会って聞きたいことがあるんです」 女の人は怪訝そうに眉を寄せつつも、版元の住所を教えてくれた。俺は野菜を包んだ風呂敷を抱えたままそこに向かい、絵の作者・歌川国芳さんの住処を尋ねた。 俺には、あの絵を見た瞬間から、これを描いた人も俺と同じ仲間だという確証があった。なぜなら俺も同じようなことを考えていたからだ。 もしこのまま戻れなかったら、文章でも絵でも何でもいいから、俺が未来から来てここで生きたという証拠を残そうと思っていた。この人は、まさにそれを遂行したのだ。あの絵はまさしく、時代を跨ぐ人へのメッセージだと思った。 歌川国芳という人の住むあたりは、江戸の中でも下町の住宅街だった。現代とは違って、電信柱に住所が書いてあることはない。 その代わり、人々が温かくてコミュニケーションが盛んに行われている。だから今日みたいに何かを探す時は、手当たり次第に人に尋ねて解決している。現代にいた時には、とてもできなかった芸当だ。 「あの、このあたりに歌川国芳っていう絵描きのおじいさんは住んでませんか」 「ああ、そこの隣の家だよ。お前さん弟子入り希望かい」 「いやただのファン、じゃなくて……、絵を見て好きになって……」 「うーん、懐かしい言葉じゃのう……」 頭のすぐ後ろから嗄れ声がして、飛び上がりそうになる。振り返ると、イメージしたよりも若々しい、無邪気な顔で笑う職人風のおじいちゃんが立っていた。 「先生、お客さんだってよ」 「あ、あ、あの俺……」 「まあ、もう事情は分かった。中に入りなさい」 「はい、失礼します!」 急展開に呆気にとられているおじさんに頭を下げながら、老人の家の敷居を跨いだ。案内された場所に座り、雇われているらしい少女が出したお茶を、恭し気に一口飲む 「わしは歌川国芳。お前さんは?」 「佐竹菖蒲といいます」 「さて菖蒲君、話したいことは色々あるだろうが、まず聞いてもいいかの」 はい、と頷くと、お茶を飲んで一息ついた国芳さんが、堰を切ったように話し出した。 「わしはこっちの生まれで、お前さんくらいの頃に一度未来へ時間旅行をした。世は二〇一五年と言っておったかの。わしはもう向こうへ行くことはできんのだが、今はスカイツリーやらケータイやら、分かる人にだけ分かるものを絵に描いて、ここでお前さんのようなのが訪ねてくるのを待っているのだよ。して、君は西暦の何年から来た?」 「二〇一九年です」 「二〇一九年! ようやくわしがいた時代よりも後の者が来たか!」 老人の目がきらりと少年のように輝く。この人の話を聞いていると、どうやらタイムスリップしている人は意外といるものらしい。 「聞きたいのだがね、『ガラスの仮面』は完結したかね」 「……残念ながら」 「そうか、わしはあれに夢中になってね。それでどちらが紅天女を演じるのか知りたかったのだが、そうか、まだ駄目か」 タイムスリップしてきた未来人に最初に聞くのが少女漫画のラストって何だよ。もっと他に聞くことあるだろ! どこから来たのかとかさ。しびれを切らした俺は自分から切り出した。 「タイムスリップしてきた人って、他にもいるんですか?」 俺にとってはやっと本題に入ったのに、国芳さんは突然興味を失ったように答える。 「ああ。今はもう、皆帰ったがの。帰る方法を知って尚残った者は一人としていなかった。間に合った場合に限るがな……」 「間に合った場合……?」 俺が唾を飲む音が部屋に響く。 「お前さんは、ここへはいつ来た?」 「去年の霜月二十日です。絶対忘れません」 「そうか。だとすると帰るなら、一度しか機会はないぞ」 「帰れるんですか?」 身を乗り出したために、机の上のお茶が傾き、そして音を立てて戻った。心がざわざわと波を立てる。 「あちらから旅をしてくる者は皆、向こうの夏至からこちらの冬至に辿り着く。そして帰る機会は次に訪れるこちらの夏至のみじゃ」 「こっちの夏至……」 「冬至は太陽の生まれた日、そして夏至は命日だと言われておる。その日を境に長くなり、短くなるからのう。その時、時空を超えた窓が開き、引き寄せられる者がおる。わしが見ている限りはそうじゃな」 「次の夏至って、いつですか?」 「皐月十五日じゃな」 ええと、今日は五月の十四日。ということは、俺が帰る日はまさか……。 「明日?」 「ああ、そして帰るのは、日付が変わる瞬間。つまりは今日の夜にはもうここを発つことになる。いやぁお前さん、危なかったのう。強運の持ち主と言うべきかもしれんが……」 「その時間に、どこへ行けばいいんですか?」 「来たのと同じ場所に、一人きりで行けば時空の扉が開く。詳しい原理は分からんが」 「もし、今日を逃したらどうなるんですか?」 「もう帰ることはできん。一生ここで暮らすんじゃな」 目の前が暗くなり、国芳さんの声が遠くなった。帰って日常を取り戻す道と、このまま江戸で梗太郎と生きる道。天秤に乗せることすら難しい決断をしなければならない。今日、自分の力で。俺にはそんなことできるはずない、と逃げ出してしまいたくなった。
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