第三章

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帰り道、最後に国芳さんに投げかけられた質問をずっと反芻していた。 『お前さんは、どうして自分がここへ導かれたと思う?』 俺は答えることができなかった。だって、思い当たることが多すぎる。少女を救ったこと。子供達にそろばんを教えたこと。俺自身が成長できたこと。そして、円藤梗太郎という人を愛したこと。どれも俺にとってかけがえのないことで、この半年は間違いなく人生の中で一番濃い時間だった。 現代を離れた時は、何の覚悟もしていなかったし、悲しみも感じなかった。でも、ここを発つとなれば、もう二度とここで出会った人には会えないと知りながら行くことになる。それが俺には耐えられなかった。 「菖蒲……菖蒲!」 「……ん、何?」 「豆腐は買ってこなかったのか?」 「あ、買い忘れた! 今すぐ行ってくる」 「いい。もう暗いし、店も閉まるだろう」 「ごめん」 罪悪感が募る。俺はどこまで薄情で役立たずなんだろう。これが一緒に食べる最後の夕餉になるかもしれないのに。そう思うと胃のあたりが狭くなった。 「どうした? 顔色が悪いようだ」 梗太郎の優しさが怖い。黙っていることなんてできないと分かっているのに、大好きな人を前にして、帰るなんて言葉を口に出すことはできなくなっていた。 「菖蒲、何か隠しているな。俺に隠し事など通用しないぞ」 気づくと梗太郎は目の前に座って目線を合わせ、俺の両手を固く握っている。俺が逃げるように目をそらすと、繋がれた両手が主人と馬を繋ぐ手綱のようにわなないた。 「約束したではないか。急にいなくなったりしないと」 その言葉で、ハッとした。この人は全部見抜いている。自分の言葉で伝えられないうちに、見透かされたことが不甲斐なかった。自分から「絶対」と持ち掛けた約束を、守れなかった己を強く責める。観念して、言えなかった言葉をぽつりと後出しのように漏らした。 「帰れるかもしれないんだ」 「帰るって、未来にか」 涙が溢れそうになって、きゅっと喉を締める。 「……うん」 「いつだ?」 「今日……子の刻が来る時に、来た場所に行けば、帰れる……。でも、もうそれを逃せば、次はないって……」 あの日、お互いの気持ちを確かめ合った日、俺を元いた世へ帰したくないと言った梗太郎を思った。本心はきっと、そっちのはずだ。それなのに、強く握られていた手が、突然ぱっと離れた。 「お前の家族は、きっと待ち詫びていることだろう。よかったではないか」 優しい目はいつもと同じように美しい半月を描いている。それなのに、眉や口は苦悶に耐えるように歪んでいた。でもその顔も熱い靄で隠れて、よく見えない。 嫌だ。梗太郎を失いたくない。そう言えばいいのかもしれない。でも、俺にはそれを言う勇気もない。 『優柔不断で決断力に欠ける』 小学生の時から、通信簿に書いてあった俺の短所が、こんな時まで俺を支配していた。明日、あの場所に行けばコバヤシ達に会える。先生に、百合に、母さんに、父さんに、ばあちゃんに会える。 ずっと恋しかった家に帰って、温水シャワーやハンバーガーに囲まれた生活に戻れる。でも代わりに俺は、梗太郎を永遠に失うんだ。そう思ったら、言葉の代わりに涙が溢れて止まらなくなった。何も決められない俺は最低だ。でも、今は同じ空間にいるのに、二人の距離が遠いことだけが、こんなにも辛い。 「梗太郎、俺を抱いて」 離れてしまった手を、濡れた手で握りしめる。もう二度と会えなくなるなら、今だけはせめて、強い絆で結ばれていたかった。 「……できない」 ゆっくりと手を振り払われる。涙が零れて次の雫が補填される間々に、歪んだままの梗太郎の表情が垣間見えた。 「なんでだよ! 今日は……。今日は、キスの続きを教えてくれるって、言ってたじゃないか!」 「……頼む。もう……やめてくれ」 梗太郎は浅いため息を繰り返して、目頭を抑えると俺から顔を背けた。 「……そんなことをすれば、俺はお前を手離せなくなる」 梗太郎の中で、理性と本能が葛藤しているのが俺にも分かった。 「分かんないじゃないか! してみたら相性が最悪で、嫌いになって別れやすくなるかも……」 「ふざけるな!」 体全部から振り絞るような声。こんなに怒った梗太郎を見たのは、初めて会った日以来だ。俺のために声を上げてくれたあの日、俺はこの人に恋をしたのだ。ビリビリと電気を放つような気迫で怒鳴られて、あの時はあんなに救われたのに。今は自分の軽薄さを激しく悔いることしかできない。 「こんなにも愛した相手を抱いて、嫌いになる男がどこにいると言うのだ」 激しかった語調が少しずつ力を弱めていき、最後は少し湿っていた。 「ひどいよ……」 「そうだ、俺は酷い男だ」 違う。酷いのは俺の方だ。梗太郎に苦しい決断をさせたのに、残酷なことを言ってまたひどい役を押し付けようとしている。 「だからもう……捨て行け」 そう言い放つ姿に隙はなく、どんなに泣いて縋っても、取り付く島もないように見えた。それが、優柔不断な俺のために見せた梗太郎の優しさだと痛いほど分かる。だからこそ、あまりにも辛い。 きっと、梗太郎は前々から覚悟を固めていたのだろう。俺が帰ると言い出す日のために心の準備をしていたに違いない。 それに比べて俺は、自分のことばかりで必死になって、今だって梗太郎に一ミリも近づくことができないでいる。もうすぐ会えなくなるかもしれない。時間は刻一刻と迫ってくる。その実感が強まるほどに、何を言えばいいのか分からなくなった。 そして気づけばもう、深夜零時まであと半刻も無くなっていた。 「……菖蒲。お前と過ごして、この上なく仕合わせだった」 「俺も、楽しかった。大好きだったよ」 自分の口から出た過去形を少し悔いる。それでも、俺だってこれ以上、梗太郎を苦しめたくない。ただ子供たちに何も言えなかったことが悔やまれた。素直で、天真爛漫で、こんな俺のことを慕ってくれて。どの時代でも子供たちの可能性は無限だと思わせてくれた。 「子供達に、お別れできなかった。これからもずっと応援してるって伝えてくれる?」 「ああ」 国芳さんによる、タイムスリップの条件は人に見られていないことだった。見送ると言って聞かない梗太郎を何とか説得すると、しぶしぶ一本の刀を俺に差し出した。 「これを持っていけ。俺だと思って傍らに置いてほしい。きっと守ってくれるだろう」 毎朝梗太郎が鍛錬のために振っている刀だ。武士の命とも言う刀を、俺なんかにくれていいのだろうか。 「でも……。帰った場所には、辻斬りなんていないよ」 「お前の故郷はよき世なのだな。だがどうか、持っていてほしい。……達者で」 「分かった。……梗太郎も」 涙を袖で拭いながら、刀と提灯を手に江戸の町を走った。振り返ることはできない。ここへ迷い込んだ時は寒かったのに、あれから雪を見て、桜を見て、忘れられない景色を見た。そしてどの思い出の隣にも、同じ笑顔がある。それがどれだけ支えになったか。 結局最後まで、迷惑かけてばっかりだった。後悔が募るほどに、思い出がよみがえるほどに、もう会いたくなって胸がちぎれそうに痛い。視界が曇ってばかりで、どこまで来たのかも分からない。提灯で周りを照らすと、ちょうど売られた少女を助けたあたりだった。 その時、近くで地面を踏みしめる音が聞こえた。それも一つではない。深夜の江戸にはめったに人通りなどない。咄嗟に茂みに隠れて目を凝らすと、傘で顔を隠した男が移動するのが見えた。 思わず息を呑む。昨日、梗太郎の家の前にいた傘男だ。不吉な予感がした。やつが消えた方に聞き耳を立てると三、四名の男が集まっていた。向こうは俺が近づいていることに気づいていないようだった。 「尾張藩脱藩浪人・円藤梗太郎、討幕派の会合に参加していた浪士に間違いない」 「先ほど弟子が出ていき、今は自宅に一人です」 梗太郎の名前が出て、口から心臓がまろび出そうになる。開国に向けて仲間と動き始めた梗太郎は、幕府に忠実な浪人から追われているのだとすぐに悟った。 「では、今より決行する。九つに奇襲を仕掛け、確実に仕留める」 「御意」 九つとはつまり子の刻。俺が帰る時間と同時刻だ。やつらは何を話していた? 仕留めるって殺すって意味だよな。ダメだ。梗太郎の刀はここにあるのに。 梗太郎の体から真っ赤な血が流れるのを想像したら、腹の底から怒りがわいてきた。体は熱いけど、思考はまだ冷静だ。男達はもういない。梗太郎の家に向かっているのだろう。 次の瞬間、俺は踵を返して駆け出していた。もう一点の迷いもない。これを聞いたのは偶然じゃない。天からの知らせだ。今こそ梗太郎に恩返しできるチャンスが来たんだ。やっと、役に立てる。そう信じてひたすら走った。 ごめん、百合。もう遊んでやれなくて。ありがとう、母さん父さん。こんなにでかくなるまで育ててくれて。ばあちゃん、あの世でいつか会ったら聞いてよ。めちゃくちゃカッコいい侍の話。何度も俺を守ってくれたんだぜ。でも今は、あの人を守れるのは俺だけだ。だから絶対に助ける。それから伝えるんだ。やっぱり梗太郎がいない人生なんて、嫌だって。 やつらに勘づかれないように回り道をする。もう江戸の地理は路地裏まで頭に入っていた。もう二度と見ることはないと思っていた家が見えてくる。昼には子供達の声が響く寺子屋で、夜は俺達の愛の巣に変わる、俺のたった一つの安らげる居場所。辿り着くと、黒ずくめの男達が、まさに押し入る瞬間だった。 「やめろぉぉ!」 貰った刀を入れ物から抜く。殺しちゃったらどうしよう。痛いんだろうな、と思ったけど、今は梗太郎のために俺も強くならなきゃ。目を瞑って、思い切り振りかざす。 ――ボーン ボーン ボーン 捨て鐘が三つ鳴った。子の刻、十二時だ。 「梗太郎! 追手だ、逃げろ!」 叫びながら振り下ろすと、俺の刀が男の脳天を直撃する。恐る恐る目を開けると血は出ていなかった。代わりにどすん、と鈍い音がして、男が崩れ落ちた。 「木刀……?」 確かに真剣を渡すわけないよな、と思うと刀を持つ手の力が緩んだ。奥から現れた梗太郎が、真剣で応戦しながら声を上げる。流石の刀裁きに見入ってしまいそうになった。 「菖蒲⁉ 何してる! もう九つの鐘が鳴ったぞ!」 自分の命が狙われてるって時に真っ先に俺の心配なんて。全くこの人はどこまで。 「お人好しすぎんだろ、バカ野郎‼ 自分が襲われてんだぞ!」 「弟子は家にいないのではなかったのか!」 「そ、そのはずでしたが……」 男達が動揺している隙に、俺は大声で助けを呼んだ。すぐにお隣のおじさんが提灯を手に飛び出してきて、刺客達は気絶した男を抱えて足早に逃げて行った。 「大丈夫かい、先生!」 「ああ。俺は無事だ。菖蒲は?」 「平気……」 「どこが平気だ! もう……帰れないんだぞ!」 また怒鳴られた。梗太郎の怒りは全部優しさからだって知ってるけど、せっかく戻ってきてやったんだから、もっと喜べっつーの。 「そうだよ。でも、いい。ほら、梗太郎の侍らしいとこ、やっと見れたし……」 「うつけ者……。このようなことを……して……」 「おい……泣いてんのかよ。武士の名が廃るぜ」 そういう俺だって、もう体中の水分が無くなるんじゃないかってくらい泣き通しだ。でも今の涙はさっきまでより柔らかくて熱い。 粋が命の江戸の人々は、俺達の空気を察したのか、いつの間にかいなくなっていた。 俺達は出会うはずのない二人じゃない。出会うべくして出会ったのだ。太陽の命日、満月の下で俺はそう確信した。
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