第一章

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「で? 今日来るはずだったのは十一の歳だと聞いていたのでんすが?」 「いや、事情が変わりまして……。けど、こっちの方が器量よしだし見込みもあるときた。まあ、ややとうはたっていますが、新造にして仕込んでしまえば……」 売春をする店に売られるとは分かっていたが、足を踏み入れたここは異世界みたいだ。 船に乗せられ、やたら曲がった道を歩かされると、大きく立派な門と、同じ真っ赤な色に塗られた建物が軒を連ねていた。もしかして、これが伝説の吉原というやつなのだろうか。 「まあ、よろしい。下がりなんし」 俺をここに連れてきた人は、なぜか少し名残惜しそうな顔で帰り、俺の前にはタバコをふかしているばあさんだけが残った。 厳しい表情、険しい目、ドスの利いた声。現代人にはまず見ない貫禄がある。それはそうと、今は一体西暦何年なのだろう。 「あんた。面、見せな」 「あのぅ、一つお尋ねしたいんですけど」 「何だい」 「今って、何年ですか?」 「安政四年だよ! そんなことも分かんなくて頭は大丈夫なのかね⁉」 安政……。安政の大獄って聞いたことがある。誰が何をした事件かもよく覚えてないし、西暦に直すと何年に相当するかも分からない。漢字が苦手だからと世界史選択にしたのが間違いだった。タイムスリップできるなら、あの時の俺に日本史選択にしろって言いたい。って、そんなに時代を簡単に行き来できるなら、もうとっくに帰っているんだけど。 でも、うろ覚えの記憶の中では安政は、江戸時代の最初の方じゃなかったはずだ。むしろ終わりの方だろう。それって幕末ってやつなのか。 だとしたら、ここにいる侍はもうすぐ仕事を失うことになる。そしてそれを知っている人はまだ、いない。 「で、今は何月何日ですか?」 「霜月二十日だよ」 霜月は確か、十月? いや十一月か。どうりで寒いわけだ。俺が来たのは二〇一九年の六月二十二日だったから、季節的にかなりズレがある。これはどういうことなんだろう。 思案を巡らせていると突然、ピシャリと冷たい痛みが手の甲に走った。 「くだらないことばかり聞くんじゃないよ! 次に妙なことしたら、これでまた叩くからね!」 ばあさんの手には、孫の手みたいな木の棒が握られている。それで叩かれた痛みは、びーんと痺れになってしばらく残った。 「あんた名前は?」 「……サタケショウブっす」 「苗字があるのかえ?」 「あ、ええと……」 「まあいい。文字は書けるかい? 名前をここに書くんだよ」 中学で使っていた習字セットの半分くらいのサイズの硯と筆が渡される。「佐竹菖蒲」と書くと、少しだけいつもの自分を取り戻した気がした。テストの度、宿題の度に書いていた自分の名前。今頃皆は俺を探しているだろうか。戻れたなら、あんなに嫌だった試験も、今なら嬉し泣きしながら解けると思う。 「菖蒲。あやめと書くのか……。丁度いいじゃないか。ここではお前はあやめだよ」 「あやめ……」 これってアニメ映画で見たことある。名前を取り上げられるやつだ。少しテンションが上がったが、藁半紙に書いた自分の名前が、ふわりと浮き上がることはなかった。 「うちは小見世だからすぐ売りに出すよ」 「は、はい」 「あとうちでは廓言葉を話すんだよ。ありんす国だからね」 「はい、でありんす」 無視されたけど、たぶん間違っているよな。それよりもマズいのは、実は男だと言って追い出されるきっかけを、完全に失っていることだ。このままだと客を取らされるのも時間の問題だ。それだけは絶対に回避したい。 「まだ座敷には出せん。見習いとして、鈴雛についてもらうよ」 「あ、はい、でありんす……あと、一つ言わなければならないことが……」 実は俺、と口を開いたその時、ガラリと引き戸が開いた。その向こうには色白の女の人が眉を寄せて正座している。 「鈴雛。ちょうどいいところへ来たね」 「あのぅ……失礼いたしんす……。夕霧姐さんが、また……」 「なんだね?」 「浅葱裏の相手は嫌だと言っておりんす……」 タバコを吸って深くため息をついたおばあさんは苦々しい表情のまま、こぼれた刻みタバコの灰を払って居直った。 「詮方ない。あやめ! あやめ……あんただよ!」 「俺?」 「今日の座敷に出てもらうよ」 「できるだけ下手なことはしないで、大人しくしてるんだよ」 そのたった一つの言いつけを守りながら、俺はひたすら下を向いて座敷の隅に座っている。一体何時間経っただろう。着せられた着物は、東京江戸村から着てきたものの何倍もずっしりしているし、頭に刺された簪も重い。 それにしても着替える時、さらしの下の体やカツラの異変に気づく者がいなかったのは、流石にどうかと思う。しかし奇跡的に、俺が男じゃないかと疑われることが一度もないまま、ここまで辿り着いてしまった。とりあえずはこの場をしのぐことを考えよう。もし客の前で粗相をしたら、俺は生きて未来に帰ることはできないかもしれない。 一人怖気をふるう俺をよそに、宴会はどんどん盛り上がっていった。酒が入った客の男達は半狂乱で騒いでいる。酔っ払って羽目を外すのは、サラリーマンも侍も一緒なんだな、とつくづく人間の愚かさを悟った。 「夕霧に袖にされた時にゃ落ち込んだけんど、あやめがべっぴんでわしゃ満足じゃ!」 「ほれほれあやめ、遠慮せんでもっと呑め」 「はい……でありんす」 か細く高い声を出して何とかごまかす。しかし日本酒なんて、高校生の俺にとっては初体験で、さっき飲んだ一杯のせいで瞼が鉛のように重くのしかかってくる。 「円藤殿。せっかく吉原に来たんですから、もっと楽しんではいかがか?」 「そうでありんすよ。ほらもっと呑んでくださいなんし」 いいなぁ。俺も鈴雛さんみたいなエッチな美人に、あんな風にしなだれかかられたい。 しかし、円藤殿と呼ばれた侍は、鈴雛さんのお酌を断って自分で徳利から酒を注いでいる。失礼なやつだ。しかもこれで、整った顔立ちなのが許せない。キリっとした眉、切れ長の目、通った鼻筋に固く結ばれた唇。他の侍と違って頭を剃らずに束ねているのも似合っていて、悔しいけどカッコいい。鈴雛さんが放っておかないわけだ。 しかし円藤殿は、何につけても気まずそうに一人で酒を煽るばかりで、鈴雛さんと俺には目もくれない。せっかく高い金を払ってここに来ているのに、どういうつもりなのだろう。こうなると何だか悔しくなってくるから不思議だ。かりそめの遊女のプライドってやつがくすぐられた。 「あの……あまり呑んでは体に障りますよ」 円藤殿の近くに寄ると、新品の木の箱みたいな匂いがした。なぜか懐かしい感じがする。 「ああ、かたじけない」 なぜか彼の放つ空気に包まれていると、さっきまで必死に取り繕っていたことが何だかバカバカしく思えてきた。 ――俺、こんなとこで何やってるんだろう。 また下りてきた瞼と戦いながらぼーっと考えていると、円藤殿がスッと立ち上がった。 「失礼。一寸厠へ行って参る」 その凛とした立ち姿に、思わず目を奪われた。177センチくらいはあるんじゃないかという長身。おそらく江戸に来てから見た男の中で一番背が高い。ジムもプロテインもない時代なのに、体もがっしりと鍛えられている。。 「お早く帰ってきてくださいなんし、ね?」 「……あ、あぁ」 鈴雛さんの猫なで声に空返事をして戸を閉める。その音だけで、乱れた空気の宴会場に、ピリッと緊張が流れ込んだ。それを察してか、鈴雛さんが必死で盛り上げようと動き出す。 「ほら、あやめが腹踊りをしてご覧にいれんすよ」 「えっ、俺?」 「あやめ、やってくれんのか! 見たい見たい!」 「わしも見たい!」 気づけば俺の周りを赤い顔の侍が薄ら笑いを浮かべて囲っていた。気色悪い。遊郭ってもっと上品なところじゃなかったのかよ。 「ほら、早く早く」 それよりも、ここで脱いでしまったら、いよいよ男だってバレる。どうしよう。どう切り抜けたらいい。へまをしたらまた叩かれて、待遇も悪くなるとばあさんに脅されたことが頭をよぎる。酒のせいで靄がかかった思考は、もう容量オーバーで止まりかけていた。締め付けが苦しい帯に手をかけたその時、勢いよく戸が開いた。 「下らん。そのようなことをして何が面白い」 大の大人数人が囃し立てる声でざわついていた座敷が、水を打ったみたいに静まり返る。べん、と三味線が鳴るみたいに強く、深い声。円藤殿の喝に男達は恐れ入ったと見えた。 「やだなぁ、冗談だよ。なあ鈴雛」 「え、えぇ、もちろん……」 会心の一撃を繰り出した当の本人は、大して気に留める様子もなく、また無遠慮に盃を空けている。それに促されるように、全体の空気も何事もなかったかのように元に戻った。 あくびを噛み殺す円藤殿の横に駆け寄り、空いているお猪口に酒を注ぐ。 「おう、っとっとっと。かたじけない」 「あの……ありがとうございました」 「ああ、案ずるな」 「……はい」 やっぱり一瞥もくれない。俺には一ミリも興味がないみたいだ。助けてくれたのも、自分がうるさいと感じたからにすぎないんだ、と思った時、俺の中で何かがめらりと燃えた。 女装してキャバ嬢みたいなことをして、客がなびかなかったからムッとするなんて、どうかしている。これも酒のせいなんだろうか。俺は整った横顔をじとじとと睨みつけた。 宴会も終わりに近づき、遊郭に集う男女が、次の算段を決める時刻になった。 「ねえ、この後あちらにも行ってくださるんでありんしょう?」 鈴雛さんが円藤殿の肩にもたれて悩ましげな表情を浮かべる。来た。夜のお誘いだ。くそ羨ましい。こんな和服美人を脱がして触って、あんなことやこんなことができるなんて。よく見ると鈴雛さんって、先生に没収された雑誌の人妻に、ちょっと似てるんだよな。 「俺は結構。立花殿、行ってきたらいい」 鈴雛さんが、少しだけ落胆した表情を浮かべる。考えられない。こんな美人がエッチに誘っているのに。童貞の俺が、あいつの胸ぐらを掴んでやりたいと喚く。 でも酒が回って、体がいよいよ動かなくなってきた。ダメだ、瞼が重すぎる。ここで寝たらまた叩かれる……。いや、案外目が覚めたらそこは東京江戸村かもしれない。そうだ。そうに違いない。謎の安心感に包まれたまま俺は、ふつりと眠りの深淵に落ちていった。
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