第一章

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顔に食い込んだ畳が痛くて目を覚ます。妙なお香のような匂いが漂ってきた。元の時代に戻れてはいないみたいだ。慌てて体を起こすと、頭が少し重い。いつの間にか座敷からは人が消えていた。鈴雛さんは立花殿と褥を共にするために隣の部屋へ行ったのだろうか。いけない。俺も客を朝まで留めるように言われていたのに、すっかり眠ってしまった。 ふと後ろに人の気配を感じて振り向くと、円藤殿が座って一人で酒を呑んでいた。 「……まだ、いたんすね」 「おう、起きたか?」 イラついている様子もなく、上機嫌といわけでもない。不可解な人だ。バカ騒ぎもせず、女遊びもせず、帰りもしない。何のために遊郭に来ているのか、率直な疑問をぶつけずにはいられなかった。 「……あの。なんで、そんな感じなんすか?」 「何が?」 「せっかく、鈴雛さんが誘ってたのに……」 ああ、と腑に落ちたような顔をして、すぐに白い歯を少し覗かせる。 「俺は女ってのが得意でなくてな……」 それはゲイってことなのか?それとも、遊郭にいるような女が嫌いなのだろうか。でも、だったら俺なら……。 「俺、男だけど」 なぜ思ってしまったのだろう。「俺ならセーフだろ」って。一瞬、時が止まったみたいに相手の顔が固まった。やってしまった。よりによって自分からバラしに行くなんて、俺はどこまでバカなんだろうか。 「……は?」 「だから、男なの! ほら、声低いだろ?」 「……女郎、ではないのか? 何ゆえ男が?」 「それはまあ色々、事情があって」 いけない、暗い顔をしたら。困らせてしまう。まだポカンとした顔をしている相手に、俺は着物の裾をめくって見せた。 「信じられないなら、見るか?」 「い、いや……」 横を向いた耳が少し赤く染まる姿に、なぜか和んだ。 なんだ、可愛いところもあるじゃん、と調子づいてもう一度、ほらほらと着物をはだけると、やめろ! と顔を伏したまま手で制してきた。 「ははっ……」 「何笑ってる」 指摘されて初めて、自分の頬が緩んでいることに気づいた。思えば、ここに来てからこんな風に人と接したのは初めてだ。 そこで、俺は自分に与えられていた役割を思い出した。俺は今からこの人を今から、自分の客にしないといけない。そう思った瞬間、一気に心臓に負荷がかかった。 円藤殿はまだ事態を受け容れられていないようで、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。さっきまでとはまるで別人だ。掴めないけど、面白い侍。もっと違うところで普通に出会っていたら、なんて考えても仕方のないことばかり考えそうになる。 でも、この人なら、嫌じゃない。それにこの分じゃ、急に襲い掛かって来たりはしないだろう。初めての客としては都合がいい。この人と友達になりたいと思うのと裏腹に、そんなことを企む俺は、案外非情な遊女に向いているのかもしれないと思った。 「なあ、一緒にあっちの部屋行ってくれよ。そうじゃないと、ぶたれるんだよ。あれ、痛いんだ……」 「随分、口が達者だな。男にしては上出来な女郎だ」 「んなこと……」 突然、心の距離を感じて少し後ずさる。図星なことを言われただけで、何でショックを受けているんだ、俺は。 空気の変化を読み取ったのだろうか。彼は神妙な顔をして、今度は俺の目を真直ぐ射抜いた。じっと捉えると、相手の目が揺らいだように見えた。驚くほど透き通った目をしている。そういえば、ガスや電気が普及するよりも前の日本の空は、今よりずっと綺麗に星が見えたのだと聞いたことがある。この人の目のように、空は澄んでいるだろうか。この狭い座敷を抜け出して確かめに行きたい。 「お前、ここから出たいか?」 心の裡を見透かされたのかと驚いて、思わず本音が零れた。 「出たい。帰りたい」 反射的に出た願望は、身も蓋もないものだった。そうだ、俺は帰りたい。早く皆のところに戻って、この服を脱いで、スカイツリーに行って、それから宮城の家族のところに帰るんだ。そう思うと、緊張が一気に解けて目頭が熱くなった。 「でも……帰れんのかな、俺……」 「俺に任せておけ」 「え?」 「お前はそのまま、余計なことはせず、ここにいろ」 侍は、身じろぎもせずスッと立ち上がると俺に背を向けた。大きな背中。今夜会ったばかりなのに、この後ろにいれば大丈夫と思える安心感がある。その後ろ姿が空気を取り込んで伸び上がると、一瞬にして緊張が走った。 「おい、遣り手を出せ!」 雷のような怒声が繰り出される。何が起きたのか掴めずに硬直した。 「ど、どうされましたか……」 隣の座敷にいた幇間や見習いの女郎が次々と顔を出し、さっきのばあさんも現れた。 「どういう了見だ! この店は女の格好をした男子に接待をさせるのか!」 「……え、それは一体……?」 「この女郎、男ではないか!」 指を向けられ、殺されるのかと錯覚した。ライオンの咆哮を思わせるようなすごい剣幕だ。帰りたいか、と尋ねた時の優しい眼差しとは別人のようだ。もしかして本当に俺に腹を立てているのでは、と心配になるほどの切実さがある。まさに本物の侍だ。俺は今遊女の格好をして、本物の侍に守ってもらってるよ。ばあちゃんへの土産話が一つ増えた。たぶん大した作り話だって笑われるだろうけど。 「何でげすって?」 「あやめ、改めさせてもらうよ」 遣り手のばあさんの手が俺の襟を掴んで一気にはだけさせる。さらしを剥がすと、膨らんだ乳房とは程遠い、薄い胸板が露になった。 「あんた、騙したね⁉」 「そ、そんな……」 「しっかりと改めもしないで、座敷に出した店にも非があるのではないのか?」 畳みかける円藤の言葉に、全員が口をつぐんだ。 「申し訳ござんせん……とにかく、あやめ。あんたはクビだよ」 「……はい。失礼します」 ラッキー、とばかりにそそくさと抜け出すと、ぐいと手首を掴まれた。 「待ちな。あんたにやった道具や着物の借金が残ってるんだよ。それは下男でもなんでもやって返してもらうからね」 手のひらを返したような冷たい声。その声だけで、ここがどんな世界か、少しは想像がついた。そもそも道具なんて貰っていない。着ている着物はこの場で返せばいい。きっとハッタリで俺を上手く使おうとしているのに決まっている。 「いくらだ」 声を上げたのは円藤だった。さっきとは打って変わって、落ち着き払った声に皆がたじろぐ。空白の時間が流れた。 「いくらだと聞いてる」 「えぇ……」 詰問されて黙っているということは、ハッタリに間違いない。それにもかかわらず円藤はにべもない表情のまま懐から小判を取り出して、正座する老婆の前に放り投げた。 「これで足りるか」 「は、はい……」 それが何万円相当の何という金なのかは分からない。でも、ばあさんの目の色が変わったことから見ても、相当の価値がある金なのに違いなかった。 「失礼する」 一同が注目する中、円藤はそそくさと店を後にした。俺は皆が動きを止めたままの座敷で、慌てて着物を脱ぎ捨て、簪を抜き取ると、はだけた長襦袢姿のまま後を追った。 「あの、ありがとうございました! どうお礼を言っていいか……」 「心配は無用だ。気をつけて帰れよ」 息を切らして頭を下げたままの俺の前を、下駄の足音はどんどん遠ざかる。 「待って……!」 聞きたいことがたくさん残っている。なぜ俺の借金を肩代わりしてまで守ってくれたのか。なぜ何も聞かずに去ってしまうのか。 何かしてもらったら、その人にもっといいことを返せるようにしなさい。小さい頃からそう習ってきた。まだ恩返しもできていないのに、このままはぐれるわけにはいかない。 「俺、帰る場所が、分からないんです」 「故郷が、分からないのか」 「えっと、その、事故で記憶を失っていて」 苦しい言い訳だ。嘘だと見抜かれたかもしれない。でもそこには事情があると察したのか、何も問わずに俺の言葉を待っている。 「だからその、記憶が戻るまであなたのところで下働きとして雇ってもらえませんか!」 この人が何をしている人か知らないけれど、きっとやっていけるという希望的観測があった。あの女郎屋で座敷に出ろと言われた時の絶望とは、何もかもが違う。 「ううむ……」 見上げた先にある彼の顔が曇る。参ったな、と頭を押さえて眉間にしわを寄せた。困らせてしまっただろうか。そりゃ、そうだよな。昨日今日見知った、性別も名前も偽っていた人間に、傍に置いてくれなんて頼まれても。これじゃ恩返しどころか、厄介者だ。 「いや……何せ、金子がなくてな」 「嘘。さっきだってあんな……」 あんな小判をひょいひょい出せるのだから、さぞかし羽振りがいいものと思っていた。 「恥ずかしながら、あれは俺の全財産だ。なかなか生活が厳しうて脇差を質に入れてな」 見ると彼の脇には一本しか刀がない。街を歩く武士は、二本帯刀しているのが基本だ。 「それを俺なんかのために使って、バカじゃないんですか!」 「ば、バカだと……? では、見離して欲しかったと申すか」 「いや……でも。そんな大事な金、俺のせいで」 少し怖い顔をされてしゅんとしていると、彼の声から角が取れた。 「心配無用と申したろう」 「……そうだけど。そんなに貧乏なのか? 侍って」 ぶしつけな質問だとは分かっていた。でも俺は侍の懐事情を全く知らない。給料制なのか、誰かからせしめているのかも、学校では習わなかった。 「俺は浪人だからな」 浪人? そんな言葉、まさかここで聞くとは思わなかった。塾で散々先生から聞いてきた単語だ。出てくる時はいつも脅しの響きを孕んでいたから、推薦希望とはいえ高三の俺は反射的に拒否反応が出る。それにしても、侍に浪人とはどういうことだろう。 「浪人、って? 金貰えないんですか?」 「記憶を失っている、というのはまことのようだな。それに……随分痛いところを突く」 円藤の説明によると、浪人は主人に属していない武士、ということらしい。彼は地元の実家から追い出されて以来、江戸でふらふらしているという。 「じゃあ、普段は何を?」 「寺子屋を営んでいる」 寺子屋って塾みたいなところか。江戸時代の人と話してるはずなのに、浪人とか塾とか嫌なことばかり思い出させられる。でも、塾だったら役に立てるかもしれない。英語と歴史は苦手だけど、そろばんは珠算検定準一級の腕前だ。俺は初めて、六歳からそろばん教室に通わせてくれた親に感謝をした。 「俺、そろばんなら、できますけど」 「まことか。師範もできるか」 「たぶん。地元でもちびっ子に教えてた……気がする、ので」 記憶を失くした設定を貫くのは随分骨が折れる。いつかはこの人に本当のことを打ち明ける日がくるのだろうか。でも未来から来たなんて、信じてくれるとは到底思えない。そう考えると、あのネコ型ロボットを受け入れた人達ってすごいな、とのび太君の家族や友人に尊敬の念を覚えた。 「そうか、では早速今日から子供たちと会ってもらう。給金は、寝床と食事でどうだ?」 「はい! ありがとうございます、円藤殿!」 昨日一緒にいた侍の真似をして呼ぶと、彼は少しはにかんで眉尻を下げた。 「堅苦しいのはやめてくれ。俺のことは名前で呼んでくれるか? 梗太郎だ」 「梗太郎さん」 「さんもいらない。ざっくばらんでよい。お前、自分の名は分かるか?」 「菖蒲。植物の菖蒲って書くんだ」 「風変わりだが、よい名だな。ああ、だからあやめと名乗っていたわけか」 なるほど、と満足げに笑い、梗太郎は俺の頭からつま先までをざっと見た。 ピンクの長襦袢にぼさぼさのカツラという、笑い種でしかない格好だから、じっくり見ないでほしい。 「まるで女の成りをするためにつけられたような名だな」 「……うるせぇ。それよりこのカツラ、もう取っていいよな」 「カツラだったのか。巧妙なものだな」 カツラを外すと、早朝の涼しい風を直に感じることができて心地いい。風になびく俺の髪に、梗太郎はぎょっとした表情を浮かべた。 「ざんぎりか……何ゆえこのような頭に?」 「ええっと、それも記憶があいまいで……」 ざんぎり、と聞いた時、「散切り頭を叩いてみれば」という歴史の教師が口ずさんでいたフレーズが脳内再生された。そのじいちゃん先生の節回しは癖があってよくモノマネの標的にされていたっけ。続きは確か、「文明開化の音がする」だった。 明治時代になったら、皆ちょんまげを切って散切り頭になるはずだ。俺はこれから、先の歴史を知っている者として、どう動いたらいいのだろうか。勝手に歴史を変えたりしたらタイムパトロール隊に追われてしまうかもしれない。でも今はタイムパトロールとだって話してみたいと思う。この重大すぎる秘密は俺には荷が重すぎる。少し沈んだ俺の気配を察したのか、梗太郎がパンと手を叩いた。 「俺の家へ案内する。ついて来い!」 今はとにかく、ここで生きる術を探そう。思い悩むのはそれからだ。 「うん! よろしくお願いします!」
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