第二章

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「おい、いつまでそうしているのだ」 髪を結い直した梗太郎が、底冷えする外気に晒されるのを心配して声をかけてくる。ありがたいけど、もう少しだけ見ていたい。思った通り、いや想像した何十倍も、江戸の星空は綺麗だった。これを見ただけで、ここに来て苦労した甲斐があったと思えるほど、一つ一つが特別な光に見える。 「あ、冬の大三角だ」 「今日は月も出ていないのに、何が見えるのだ?」 「星が……。ううん、何でもない」 そういえば、今見えている星は何百年とか何千年も前に輝いた光なんだって聞いたことがある。もし、俺がいるこの時代が俺が生きていた時代と繋がっているなら、今頃光った星の光が皆の暮らす時代の空に光となって届くかもしれない。少しだけ楽になった気持ちを抱えて、梗太郎の家の敷居を跨いだ。 「かたじけないな。狭い家で」 「ここに居させてもらえるだけで、助かるから。むしろすみません」 部屋は一つしかないから、今日からここに二人で寝ることになる。改めて申し訳ないな、と、床すれすれまで頭を下げると、磊落な笑い声が降り注がれた。 「今更他人行儀な」 他人行儀って、今日突き放したのは梗太郎の方なのに。そう思い、あえて返事をしなかった自分が、何だかちっぽけな人間に思えた。 「菖蒲は、教えるのが上手いな」 「そうかな? 初めて言われた」 「俺よりずっと、師範に向いている」 「そんなことないよ。子供はみんな梗太郎にすごく懐いてるし」 「ああ、皆いい子達だ。憎まれ口ばかり叩くがな。……灯り、消すぞ」 梗太郎がろうそくの火を吹き消すと、たちまち部屋は暗闇に包まれた。街灯がある街ではあり得ない暗さだ。俺は自分の手指も確認できないほどの闇の中で考えた。彼らが、俺にもあんな風に屈託なく接してくれる日は、来るのだろうか。いくらそろばんを上手に教えられても、それは一生梗太郎には敵わないという気がしてくる。 「寒くないか?」 「……さむい」 「隙間風が入ってくるんだ。修繕したいのだがな」 ちっぽけで、得体の知れない俺なんかに、こんなに優しくしてくれる大人物。その器の大きさに、俺は少し嫉妬したのかもしれない。 「こんなんじゃ、眠れないよ」 「弱ったな……」 本当はそこまで寒くはない。梗太郎は自分が使っている冬用の暖かい上着(これが掛け布団の代わりらしい)を俺に貸して、自分は夏用の薄い着物を掛けて忍んでいる。それが俺には耐えられなかった。 「菖蒲の故郷は、南国なのやも知れぬな。江戸の寒さが堪えるのならば……」 この期に及んでも俺の心配。もう辛抱堪らなくなって、俺は大きな半纏のような着物を梗太郎に被せた。図らずも俺の体ごと覆い被さるような体勢になってしまって、咄嗟に浮き腰になる。 「しょ、菖蒲?」 何も言って欲しくなくて、自分から言い訳を並べる。 「こうすれば、二人ともあったかいだろ。布団も一枚で済むし」 でも、梗太郎は不快じゃないだろうか。妻などではない、と真っ向から否定されたばかりだったと思い出して、慌てて付け加える。 「あ、嫌だったら、やめる……」 「いや、温くて心地よい。有難う」 かたじけない、以外も言えるんだ、とちょっと感動した。梗太郎の有難うは、今まで誰から聞いたありがとうよりもずっしりと心に刺さり、その奥でじんわりと広がった。 僅か一センチの距離に、梗太郎の横顔がある。急上昇した体温や心拍数が悟られていないか不安になった。寒くなくなったのに、眠れなくなるなんて大誤算だ。 「菖蒲」 寝入ったと思っていた梗太郎が、掠れも淀みもない声で、俺の名を呼ぶ。思わず心臓の音がうるさいと注意されないかと身構えた。 「故郷が恋しいか」 「……うん」 「どこにあるか、思い出せそうか」 「うん。でも分かるのは、すごく遠いってことだけだ」 遠い。俺の故郷は、この時代のブラジルよりもずっと。そう思う一方で、案外来た道はすぐ傍にあるような気もする。今は眠っているだけで、目を覚ましたらコバヤシやカズキが「びっくりしたよ。急に寝るんだから」なんて笑いかけてくるかもしれない。もしそうならば、俺は何のためにこんな長い夢を見ているんだろう。 「俺の生まれた尾張も遠いぞ」 耳障りのよい梗太郎の声が、俺を現実に引き戻す。尾張って、県で言うとどのあたりだろう。地理で習ったけど居眠りしてたから、全然覚えていない。ここに来てから、学校の勉強をサボってたことを後悔してばかりだ。 「家が川の近くで、夏はよく泳ぎに行った」 「俺も……泳ぎは得意だよ」 「……見てみたいものだ」 梗太郎は、不思議だ。まだ会ったばかりなのに、隣にいるだけで安心する。何も大丈夫なことなんてないのに、大丈夫って思える。それは彼が先生だからなのか。江戸時代の人だからなのか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。 「そういえばさ、梗太郎って何歳なの?」 「二十七だ」 「え、マジ? 俺と十コも離れてる……。ほんとにタメ語で話していいわけ?」 「タメゴ……?」 「あー、敬語じゃないってこと」 「ざっくばらんでよいと申したろう」 それにしても十コ上。でも、昔の人は数え年だって聞いたことあるから、実際は二十五くらいなのかな。いや、でも生まれた年で考えたら、百五十とか二百コ上? 年上好きとは自覚してるけど、これはちょっと笑えない数字だ。そう考えると梗太郎は俺に甘すぎるんじゃないかと思う。 「武士ってもっと礼儀にうるさいんじゃないのかよ」 「俺は浪人だからな。国も捨てた。家も捨てた。あるのは信念のみだ」 どんな信念なんだ? と聞くのが憚られるほど、その声は真剣味を帯びている。生半可な気持ちで尋ねることはできなかった。それでも、あんたの大きな肩は、自分で思っているよりもずっとたくさんのものを守っているよ。そう伝えたかった。 「苦労してきたんだな」 「お前もだろう」 寒さにかまけて、ぎゅっと身を寄せると俺達の間にあった隙間がぴたりと埋まった。
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