第三章

2/9
前へ
/15ページ
次へ
そして今。息苦しさで目を覚ますと、普段は先に起きている梗太郎が熟睡している。それは構わないのだが、問題は体勢だ。俺を抱き枕にして手足まで絡ませている。身動き一つとれない。夢の中で手足の自由が利かなかった原因はこれか、と納得した。 「重いよ……。梗太郎……」 昨日の深酒がたたっているのか、むにゃむにゃと寝言を言うばかりで、全く目覚める気配がない。むしろ声をかけたことで、拘束が深まった。 ――ごりっ。 すると太腿のあたりに、なにかが当たった。 げっ、朝勃ち。てかこのサイズ、マジかよ。規格外だろ。およそ人のものとは思えないほどの硬さと熱さを持ったそれは、梗太郎が小さく呻く度に俺の脚に擦りつけられる。逃げようとすると、寝ている人とは思えぬほどの力で締め付けられた。 「んー、菖蒲……」 うーとかむーとかだった声が、はっきりと俺の名前の体を成して耳元で鳴った。 「何? ……って、寝言かよ」 どうしよう。なんか俺もつられて勃ってきたんだけど。最近抜けてなかったからだ。 二度寝も起床もできず、ばくばくと過剰に反応する心臓と、面倒な男のサガを抱えて俺はとりとめもなく考えた。一体どんな夢を見ているのか。昨夜は何をしていたのか。会合って言うけど何の会合なのか。なぜあの日遊郭なんかにいたのか。 ああ、くそ。全部梗太郎の事ばかりだ。ちょっと前までは自分の事ばかりだったのに、気づいたら俺の頭は梗太郎の笑顔、梗太郎の隠し事、梗太郎の本心、それでいっぱいだ。 こいつが起きたら、ずっと練っていた質問を全部ぶつけてやろう。そう息巻いていた俺をよそに、さっぱりと目覚めた男はいつもの爽やか師匠だった。あまりの通常運転に、昨夜や今朝のことが夢だったのではないかと錯覚する。明るく笑いかけてくる梗太郎に、変なことを聞けるはずもなく、悶々としながら俺も無理やり先生モードに切り替えた。 「うん、そうだなぁ。六を足すぞって思ったら、まず六って心の中でつぶやくんだ。最初は口に出してもいいから」 「……ろく」 「そう。で、十の位に六を足す。六の手はできてるね。そうしたら、次はこっちだ」 「うーんと、できた! 百十一!」 「御明算! たくさん数が出てきても、慌てないで一つずつ片付けるんだよ」 「利三郎がそろばんでこんなに嬉しそうな顔をするようになるとはな。舌を巻くよ」 まるで自分自身の手柄であるかのように、梗太郎は目を輝かせた。 「そうだ菖蒲。今日も会合なんだ。すまぬが後はお前に任せてもいいか?」 「また? 昨日もだったじゃんか」 「大人には、詮方なき事情があるのだよ」 俺も一応先生なんだけどな。これじゃ、子供達と一緒くたにされたような気がして、へこむ。もっとも、二十七歳の梗太郎は、俺にとってはずっと大人で、対等なんかじゃないんだろうけど。分かってはいるのに、今日も気持ちよく送り出すことができなかった。 いつも挟んでいる雑談をすっ飛ばして稽古を再開しようとすると、定吉が教本も開かずにこちらをじっと見て言った。 「菖蒲先生、やっぱり師匠にホの字なんだ」 「ホ……?」 「惚れてるってことだよ」 「ち、ちがっ……」 「嘘だい! 見ていりゃ犬だって分かるよ。師匠が褒めると赤くなるし、今日みたいに遅くなるって言うと大概機嫌が悪くなるんだから」 犬だってって、どんな比喩だよ。そんなに態度に出てたか? というか、梗太郎に惚れてるなんて、冗談じゃない。俺は色白で儚い感じのエッチなお姉さんがタイプなんだ。あんなガンダムみたいな男くさいやつ誰が……、と思った時、今朝の梗太郎の下半身の感覚が蘇って、顔じゅうの毛穴から汗がぶわっと噴き出した。 「やっぱり赤くなった! よかったなあ。先生方が慕い合っていて睦まじいです」 「バカ! 慕い合ってるって、誰が?」 生徒達は、やれやれと顔を見合わせた。 「師匠は菖蒲先生を連れて来た時から、ずっとご執心だったもんな」 そう言われて、初めてここに来た時のことを思い返す。でも、いたって普通の梗太郎の姿しか出てこない。 「あれの、どこが俺にご執心だってんだ?」 最近、子供達につられて俺の言葉は時々べらんめえ口調になっている。 「無理ないよ。菖蒲先生は、前の師匠を見たことがねんだから」 「不愛想で、むすっとしててさ、うちの母ちゃんも、うだつの上がらない人だねえって」 そういえば、遊郭で初めて会った時はそんな感じだったような。 「それが途端によく笑うし、菖蒲先生のことも、俺達のこともよく見るようになって、人が変わったみてえだよ」 そうだったのか。考えたこともなかった。梗太郎が俺をそんな風に見ているなんて。しかしそう言われてみると、確かに俺にだけ甘いような気もする。それに俺が梗太郎を変えた、なんて言われると、なかなか悪い気はしなかった。すると生徒の内で一番ませている勇吉が、いたずらっぽい顔をした。 「次の休みに、愛宕のお山に行ってきてはどうです?」 「あたごのおやま?」 「逢引で行くと結ばれるって今巷で人気なの、知らないんですか?」 要は縁結び的なデートスポットってことか。さっそく進展を求めてくるこの感じ、小中学生の頃を思い出す。誰かと誰かが両思いだと分かったら、遊園地行って来いよってけしかけたりして。何だか懐かしい。 「へえ。行ってみようかな……」 教室がどっと沸いた。男同士なのに、こんな風に皆に祝福してもらえるなんて、いい子達だ。何て心強いんだろう。 「気張ってください!」 「よい報告待ってます!」 って、待て待て。さっき普通に流しちゃったし、そういうことになってるけど、俺って梗太郎のことが好きなの? 付き合いたいの? 仮にそうだったとして、俺達には障害が多すぎる。男同士ってことだけじゃない。俺は未来の人間で、いつか帰るかもしれない身だ。両思いだったとして、手放しに喜んじゃいけない事情が俺達にはある。 悶々とした思いを抱えたまま、親御さんにはとても見せられないほど生産性のない授業を終えて、子供達を見送った。部屋に戻って戸を閉めると、俺は「だぁーーーっ!」と奇声を発しながら畳の上を転がった。この時代の建築物は壁が薄く、隣との距離も狭いから、たぶんお隣には丸聞こえだ。でもお構いなしに呻き続ける。 「ううううう! 恋なんかじゃねえぇ!」 ――でも放っておかれると寂しいでしょ? 脳内で子供達の声が問いかけてくる。確かに、梗太郎に放っておかれると寂しい。近くにいないと不安だ。でもそれは俺が見知らぬ土地で、慣れない暮らしをしているからじゃないのか。 ――じゃあ、一緒にいる時は? 一緒にいる時は、すごく楽しい。安心するし、もっと梗太郎のことを知りたいと思う。 ――それは恋ですよ、先生! 不器用で、浪人で、むくつけき大男だぞ? ――そうそう、そんでもってあの巨根……! 「いやいや、子供達が言うわけないだろ! そんなこと! ああああもう!」 腕をバタつかせて、黒板消しを振り回すように脳内の会話を掻き消した。 「ただいま」 「ああああ!」 大声を出していて、全く気がつかなかった。 「一人で叫んで愉快そうだな。どうした?」 これのどこが愉快なものか。やっぱり梗太郎は今日もズレている。でも、待てよ。俺の中で都合のいい子供たちの声が囁いた。俺の気持ちも梗太郎の気持ちも、確かめるにはデートあはりかもしれない。ええいままよ。この勢いで言ってしまえ。 「梗太郎、あのさ!」 「何だ?」 「愛宕のお山ってとこ、行ってみたいんだけど!」
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加