第三章

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次の週の休校日。早速我々は江戸のデートスポット・愛宕山を訪れた。目の前には、実家の周りではお目に掛かれないほど高くて立派な階段が聳えている。 「うっわー、すげー階段」 「菖蒲、駆け上り競争でもするか」 「望むところだ!」 中学生みたいな遊びをして、本気を出して侍に負ける。梗太郎は息を切らす俺を横目に、軸もブレずにサササッと上がってしまった。流石、エレベーターもエスカレーターもない時代の人は、階段との親和性が違う。 「遅いぞ、菖蒲」 腕を組んで見下されると、その迫力に気圧されてますます頂上が遠ざかりそうだ。汗を拭いながらひたすら梗太郎をめがけて駆け上がった。 「はぁっ……はぁ……、きょうた……ろ……早えよ」 よろけそうになったところを横から支えられて、さらに汗をかきそうになる。 慌てるな、この動悸は階段のせい。そう言い聞かせながら境内の向こうを見やると、そこには圧巻の景色が広がっていた。 「……すっげ……。綺麗」 そんなに高い山じゃないのに、江戸全部、下手したら埼玉や神奈川のあたりまで一望できる。平屋建ての建築物が所狭しと並んでいて、景色を妨げるビルなんてひとつもない。ここから高い建物がたくさん建って、そして戦争で焼かれて、でもそこからまたあの東京ができたんだと思うと、月並みだけど人間の力ってすごいな、と思った。鳴りやまない鼓動は耳元でまだうるさかった。 「江戸八百八町。壮観だろう」 「うん」 「天守こそないが……、あれが本丸だ」 梗太郎が示した先には、絵画でしか見たことのない江戸城が堂々と鎮座している。 「あそこに、将軍が住んでるのか」 「……そうだ」 その声には、複雑な思いが折り重なっているように感じた。この時代を浪人という立場で生きる梗太郎にとって、一筋縄ではいかない感情がそこにはあるのだろう。俺は何も聞き取らなかった振りをした。 「参拝するか」 「うん!」 梗太郎の参拝方法は、二礼二拍手一礼という俺が習った方法より何かと作法が多いようだ。そして俺が最後のお辞儀を終えても尚、頭を下げて祈っている。そんなに真剣に、何を願うことがあるのだろうか。やっと顔を上げて歩いてくる梗太郎と、歩幅を合わせた。 「何を祈ったの?」 「言わん。言うと叶わなくなる」 「ふーん。俺はいつも言っちゃってるな」 「では、何を祈ったのだ?」 「皆がさ、幸せだって思えるようになるようにって。いつもそう願うことにしてる」 本来なら「現代に帰れますように」って願うところかもしれない。でももし願った瞬間に帰されてしまったら、嫌だと思ってしまった。だってまだ梗太郎に、ちゃんとお別れも感謝も伝えられていないし。本当は、梗太郎とのこともちょっとだけ願ったけど、それは梗太郎に倣って心に秘めておく。その時石畳の脇にある池で、ポチャン、と音がした。 「あ、鯉だ!」 「お前の生まれた時代にも、鯉はいたのだな」 梗太郎が、何のひねりもない口調でぽつりと言った。 「うん、いるよ」 明るく返して、あれ? と固まる。俺、まだ言ってないよな。この人に、未来から来たって。一気に血の気が引いていった。見上げると、梗太郎も顔を少し引きつらせている。 「否定しないのか。ならば菖蒲は、まことに後の世から参ったのか」 「うん……」 梗太郎は少し俯いて黙っている。怒っているだろうか。それとも呆れただろうか。 「ごめん今まで黙ってて。記憶失くしたなんて、嘘ついてごめんなさい!」 「いい。俺も端から聞いていたとて、信じられなかっただろう」 「じゃあどうして今は……?」 「お前をよく見ていたら分かる。話の内容、言葉遣い、行動。全て遠い国の出身というだけでは誤魔化せないほど異なっていた。始めは荒唐無稽な話と思ったが、そう考えると辻褄が合った」 風が吹いて、はらりと短い前髪がおでこにかかる。俺はどんなに取り繕っても、この時代の人に成り切ることはできなかった。 「……そうだ。信じられないかもしれないけど、俺はたぶん二百年くらい後の世界から来たんだ。友達と遊びに来た場所で道に迷って、気づいたらここにいた。遊郭にいたのは売り飛ばされてた女の子の身代わりになったんだ」 「身代わりに?」 「うん。俺にはまだ小さい妹がいるんだけど、その子はそれくらいの歳で。それなのに、親に売られたって……。ずっと黙っててごめん」 「菖蒲は、本に心根が優しいのだな」 凛々しい梗太郎の目が、綺麗な半月になる。この透き通るような、慈愛に満ちた眼差しに俺は落ちたのかもしれない。 「さぞかし、辛かったろう」 「そんなことないよ。梗太郎がいてくれたから大丈夫だった」 「菖蒲……」 下弦の月が三日月になって、困ったように眉が上がった。 「人通りがなければ、今お前を抱きすくめていたところだった」 頭にわっと血が集まって、自分でも顔が赤くなったのが分かった。慌てて顔を背ける。その先にはさっきとは別の階段があり、下った先には人気のない茂みが広がっていた。 梗太郎に気持ちを揺さぶられるなんて、何だか悔しい。見てろ。すぐに倍にして返してやるから。俺は階段を一気に降りた。 「すまない。困らせたなら謝る」 必死な声が追いかけてくるのを、ニヤけそうになりながら聞き流して走った。侍の健脚が追いついた時、俺達は二人だけの空間にいた。緑に覆われた、穏やかな世界。そこだけはどうか、江戸でも東京でもない場所であってほしいと願った。 「ここなら、人いないだろ」 「お前ってやつは、全く。女郎のままにしておいた方がよかったな」 「嫌だ。梗太郎じゃない人には、こんなこと……」 首を横に振ろうとすると、温かい壁に当たって弾かれる。閉じていた瞼を上げると、梗太郎の絣の着物が俺の頬に触れていた。鍛錬された逞しい胸が、俺をそっと包んで離さない。ちょこんとしょぼい、しかしこれでもだいぶ伸びたちょんまげの頭を、大きな右手が覆った。 「お前を愛してしまった。……面目ない」 「なんで? なんで謝るんだよ」 「俺は独りよがりで非道な男だ。お前を元いた世へ帰したくないと願ってしまう」 一瞬忘れかけていたことを思い出させられて、咄嗟に黙りこむ。俺はどうしたらいい。帰りたくない、と言えば嘘になる。だから簡単にこんなことを言ってはいけないと分かっている。でも、それでも、今はまだ。 「俺を傍に置いてくれ!」 「……いいのか」 「いい。梗太郎が好きだ」 背伸びをすると草履の鼻緒が足指から離れた。広い肩に腕を伸ばす。そこから唇が重なるのは、あまりに自然なことだった。二人とも、ずっと前からこうなると知っているかのように、ぎゅっと体を寄せ合って離れない。 好きな人に愛されるって、こんなに幸せなんだ。この神社、さっそくご利益ありすぎるだろ。俺がいた時代にも、ここがまだあるなら、俺の家族に訪れてほしいと思った。でももし、そこで俺が帰ってくることを願われたら、神様はどうするのだろうか。俺は初めての恋人の胸の中で、そんな途方もないことを考えていた。
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