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1 お姫様の言う通り
もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来る。
星読み台から国中に知らせが走ったのはカテリナも知っていたが、それが自分の仕事に通じるとは思っていなかった。
いつものように王城に出勤し、朝礼の後に剣技の訓練、そろそろ増えてきた後輩の士官たちの指導をしてから書類仕事をする。山と積んだ書面をめくりながら、ありがたい、今日の上司の機嫌はいいようだとうなずいていたところで、上司の上司から呼ばれた。
「カティ、ちょっと」
カテリナの上司は多少むらっ気があるが、その上の室長はある意味軍人に向いていないほど温厚な方だ。ただこの「ちょっと」の後に何かしら言いづらいことを告げる癖があるので、カテリナは頭を垂れて上官の元に参上した。
「ご指摘をいただきたく存じます」
「それが、私にも何を指摘していいのかわからないんです」
カテリナが疑問を表情に浮かべるか迷ったとき、室長は声をひそめて彼女にだけ聞こえるように言った。
「カティ、本日から祝祭が明けるまで身を隠してもらいます」
「……は?」
「異動……みたいなものだと思ってください」
ものすごく歯切れが悪い異動内示だった。どう考えても不吉で、上官に絶対服従がまかり通る職場でも聞き返すくらいは許されてしかるべきだった。
「はい。ご命令に従います」
ただカテリナは未だ後輩たちに混じっていても新人に間違われるという、つるんとした童顔と素直な性格をしていた。もしかしたらその異常なほどの聞き分けの良さが、建国以来初めて巡ってきた有事に引き寄せられたのかもしれなかった。
正午に私服でローリー夫人のサロンへ参上するよう命じられて、カテリナはその通りに従った。王城の中の憩いの場であるローリー夫人のサロンは誰にでも開かれていて、お城に初めてやって来る下町の少年のような格好で訪れたカテリナも、快く迎え入れてくれた。
お菓子と紅茶が振舞われたが、カテリナは緊張を知らないわけではなく、むしろこういう場だと何一つ喉を通らない堅物だった。お辞儀をして一口紅茶に口をつけたきり、笑いさざめく令嬢たちとも自慢話をする青年士官たちとも交わることもできず、真剣に室長の命令の意図を考え込んでいた。
何か自分の仕事に不手際があったのだろうか。難しい顔で思考の迷路に落ちていて、周りがざわめいたのに気づくのが遅れた。
「もし、あなた」
どなたか人目を引く方が出入りされたらしいと一応気づき、とはいえそれが自分に通じるとは欠片も思わないのがカテリナだった。肩を叩かれて振り向いた先に近衛兵がいても、自分は膝に紅茶でもこぼしていただろうかと思っただけだった。
「隣室へ」
そう言われると一も二も従う素直さは、今が平和な世でなければ災いしていたに違いない。
大人になったらお父さんと同じ仕事がしたいと願って入った王城だったが、彼女を守るために少年の格好をさせていた父の愛は、果たして役に立っただろうか。
とはいえカテリナは彼女らしく澄んだ目をぱちりと瞬かせて、隣室に座していたマリアンヌ王妹殿下と対面した。
「殿下!」
王城に仕えていることと王族に対面することはまったく意味が違う。たとえるなら豪邸に届け物をすることと豪邸に住むことくらい違う。
「まあ、まあ。硬くならないで」
カテリナはさすがに血の気が引いて膝をついたが、マリアンヌは微笑んで向かいの席につくよう促した。
何事が起こったのかとよろけたが、ここでもカテリナは王妹殿下の言葉どおりに従った。カテリナが顔は上げないまま席につくと、マリアンヌは優雅にティーカップに指をからめた。
マリアンヌはカテリナの三つ年上の二十歳、幼少の頃から多くの言語と芸術をたしなむ、国民なら誰でも憧れる姫君だった。今はみつめるのは失礼に当たるが、カテリナもその豊かに波打ったブロンドと青い瞳を肖像画で見上げるたび、まっすぐな黒髪と茶色の瞳の自分と本当に同じ人間なのか不思議に思っていた。
「こちらを見て、カテリナ」
けれど本名を呼ばれて、カテリナはとっさに正面からマリアンヌを見返した。
「……まっすぐで、きれいな紅茶色の瞳。きっと、あなたなら」
マリアンヌは柔らかく微笑んだが、すぐに姫君らしい凛とした空気をまとって言った。
「もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来るのはご存じね。明日から祝祭が始まって、最終日にはワルツを踊る」
それは星読み博士が告げた、ヴァイスラント公国の建国行事だった。カテリナももちろん国民の一人として、最後の日にワルツを踊るつもりでいた。
「国王のワルツは、建国のときに精霊と特別な約束をしているの。最後のワルツは最愛の人と踊らなければならない。……でも陛下はまだ、独身」
カテリナはうなずくべきか迷った。それも国民の一人として聞き及んでいる、これから始まる伝統の儀式だった。
「陛下に、精霊との約束を果たしていただかなければなりません。ゆえに私は、これから十日の間に三人の姫君を陛下に引き合わせるよう手配しました」
建国のときに精霊が持っていたといわれる青い瞳でみつめて、マリアンヌはカテリナに言った。
「カテリナ。その澄んだ目で、陛下を最愛の人のところに導きなさい」
建国の降臨祭が始まる、その前日のことだった。
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