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はるたるのInstagramに映っている背景は代々木公園だった。雪乃はメビウスの細い紙巻きタバコをダラリと咥えて、ベランダの柵にもたれかかった。眼下の国道を車がひっきりなしに走っている。向かいには代々木公園の樹木と芝で作られた緑のモザイクがある。日頃デジタルの光に晒された雪乃の目には、風景はまるで点の集合の様に見える。それは雪乃にジョルジュ・スーラの描いた風景画を想起させた。19世紀のフランスと現代の日本とが同じ様に感じられるのだから、眼精疲労も悪いものじゃないなと雪乃は思った。
「あ、火点けるの忘れてた。」
雪乃は口の中で声にならない独り言を発した。タバコの吸口は唾液をしっとりと含んで濡れていた。肌に張り付いた安物のデニムにはくっきりとライターの形が浮かんでいる。何だかそれを取り出すのも面倒になって、湿った吸い殻をそのまま灰皿に捨てた。
はるたるは高校生くらいの歳の男の子で、時々Instagram上に動画を投稿していた。顔が昔の彼氏に似ていたから、雪乃は思わず彼をフォローしていた。でも本当に良く似ているのかは今ひとつ確信を持つことが出来ない。ただ若い男の子という背景だけで、昔の彼氏を投影しているのかもしれないと雪乃は思った。最近は甲子園をテレビで観ても、高校球児たちがみんな子供に見えるようになってきた。歳をとったものだ。今年で28歳になった雪乃は、きっと高校生から見たらもうおばさんに見えるのだろう。
雪乃は大きく空っぽの息を吐いて振り返ると、ガラス戸を後手で閉じた。部屋の中には乾いた絵具油の香りが詰まっていた。6畳のささやかなアトリエは地獄のように散らかっている。イーゼルにはもう1年近くも放置された描きかけの絵がかかっていた。雪乃は出来るだけそれを見ないよう、靴下で畳を擦りながら、床に散らばった画材を避けて歩いた。
畳のアトリエの部屋の先には間仕切りを挟んでリビングがあった。アトリエの様相とは反対にリビングは掃除が行き届いて整然としている。雪乃は丁寧にスライド式のドアを隙間なく閉めた。アトリエのそれ以外を住み分けることで、雪乃は何とか心を整えることが出来る気がしていた。
雪乃のアパートには、アトリエとリビングの他に小さな部屋がもう一つあった。家の中で唯一エアコンの付いた部屋だった。雪乃は夜そこで眠っている。壁際にダブルサイズのベッドフレームを押し付けるようにして置いてある。マットレスはシングルなので、フレームの端が顕になっていていた。もともとはマットもダブルサイズにしていたのだが、買い替える時にシングルにしてしまった。雪乃の母に言わせれば雪乃は異常に寝相が良かったし、引っ越してきてからこの5年間誰かと添い寝するなどということは1度もなかった。
代々木公園の前のそのアパートに雪乃が引っ越してきてもう5年になる。"Maison de Yoyogi"という名前にはそぐわない、純和風のアパートであった。別にアパートの名前などどうだって良いのだけれど、Amazonの宅配員からたびたび電話で建物名の確認が入るのだけは雪乃も辟易としていた。
国立の美大を卒業した時、雪乃には画家としてやっていく自信が確かにあった。代々木公園の目の前に住居兼アトリエを借りて、意気揚々と絵を描いていたものだ。油画専攻の同級生の多くは卒業と同時に筆を置いて、一般企業に勤めたり、結婚したりした。当時の雪乃はそれを単に敗北だと見做していた。しかし今は本当に敗北しているのは自分の方なのだ気付かされた。彼氏もいない。お金もない。かろうじて美術館のバイトで食いつなぐ日々だ。それでも画家として生きていく未来を捨てきれずにいるのは、つまるところ他にどんな未来も想像出来ない絶望の裏返しに過ぎない。遂には唯一の未来であったはずの絵さえ描くことさえままならないでいる。雪乃は今、何者でもなかった。
雪乃はエアコンのある部屋のシングルベッドに倒れ込んだ。スプリングの軽やかな反発で身体が一瞬ふわりと浮いた。充電器に繋いだままのIPhoneを手で探って、頭の上に画面を持ってくる。半自動的に雪乃ははるたるのInstagramを開いてしまう。他に見るべきものなど何もないのだ。FacebookもTwitterも雪乃にはない現実の人生に溢れている。結婚、出産、転職、海外旅行、ゴルフ、エトセトラ。そんなものは今の雪乃には目の毒にしかならなかった。
それに比べてInstagramなら世代がずっと下の子供しかいない。彼らにはまだ雪乃の言うところの現実の人生など何一つないのだ。それは曖昧で夢見がちな口当たりの良い世界だった。画面に流れてくる写真や動画はそのほとんどがつまらないものばかりだったが、それを見ている僅かな間は現実の世界を忘れることが出来た。
はるたるのアカウントにはもう代々木公園の動画は残っていなかった。雪乃が見た動画はストーリーと呼ばれる時間が経つと消えてしまう種類の投稿だったらしい。
はるたるのInstagramには東京の日常的な風景を切り取った写真が載せられていた。ビルとか、アスファルトとか、室外機とか、世界のどんな都会にでもあるような画一的な風景のはずが、はるたるの撮った写真を通してみると何だか趣を感じるのだ。はるたるの見ている東京は、私の生きている東京とは違う街のようだった。それでも、あの代々木公園の動画だけは雪乃の知っている代々木公園の風景と一致している。雪乃はその動画を観たとき、そう思ったのだ。それは何だか不思議な感覚だった。2つの異なる世界が刹那的に交わって波立ったみたいな、動揺を伴う感覚だ。
スマホを支える腕が疲れて、雪乃はベッドの上でうつ伏せに寝返った。枕に向かって思いっきりため息を吐くと、胸が詰まった。あの代々木公園の風景は美しかった。美しかっただけでなく、リアルな感触のある風景だった。それは多分はるたるの視点を通して見た風景だからだ。同じ風景を見ても、それが誰にとっても同じように映るわけではない。同じ東京の中にあっても、皆それぞれに違う世界に生きて、決して交わらないでいる。都会には溢れそうなくらいの人がいるのに、皆相変わらず孤独な世界を生きているのだ。
しかし、もし雪乃がはるたるの動画にリアルを感じたのであれば、雪乃は彼の物理的な網膜と、彼の精神的な世界との両方を通して同じ風景画を見たということになるだろう。それは凄いことだと雪乃は思う。決して交わらなかった寂しい数多の視点が、時として重なる瞬間があるということだ。
雪乃は考え疲れて、部屋の電気を点けたまま眠りについた。エアコンのある代々木のその部屋の明かりは、東京の夜に浮かぶ泡沫のようであった。
※ ※ ※
「それって凄いことだと思わない?」
久しぶりに会った春子と話をしているうちに段々熱くなってきて、雪乃は思わず大きな声を出してしまった。
「まあ雪乃の言いたいことは分かるけどさ。」
春子が待ち合わせに指定したのは、上野不忍池のほとりにある高級喫茶店だった。メイド風の制服を着た店員が恭しくサイフォンで抽出したコーヒーを出した。1杯700円もするコーヒーを当たり前のように注文する春子はもう学生の頃の彼女ではないのだと雪乃は思った。
「その高校生のSNSの動画に既視感を感じて、良く考えるとそれは雪乃が夢の中で見た景色だったと。まあこういうことよね。」
春子が冷静に整理する。春子は雪乃と同じ美大生の頃から、いつも冷静な人だった。芸術家志向の人間にしては珍しい性格だと雪乃は思う。その分絵を客観的に観るセンスは抜群で、春子はきっと研究者になるのだと雪乃は勝手に決めつけていた。だから春子が一般企業に就職することを知った時、雪乃は随分とショックを受けたものだ。しかしこうして見ると、春子はビジネスウーマンとして馴染んでいるようだった。
「そう!春子には前にも言ったと思うけど、私時々変な夢を見るんだよね。まるで誰か他の人間になって景色を見ているような、そんな夢。なんで彼の動画が気になったのかって、随分考えてみたんだけど、きっと夢の中で同じ風景を見たからなんじゃないかって。」
春子は手の甲に顎を乗せて雪乃をじっと見た。
「でも雪乃は代々木公園の近くに住んでるんでしょ。夢の中じゃなくたって、実際にその景色を見てる可能性が高いんじゃない?」
「違うんだよ。私自身が見たんじゃ、あんな風には見えないんだから。夢の中で彼の目を通して見たから、同じ風景として見えたんだと思う。」
雪乃は確信を持っていた。春子に話をする前までは自分でも半信半疑だったが、話をするにつれて自信が出ててきた。雪乃は夢の中で他の誰かの視点で世界を見ている。あの不可解な夢はそういうことだったのだと。
「分かった。分かった。雪乃の言うことが本当だとしてさ。その高校生の目を通して見た風景ってどんな感じだったの?」
雪乃はプラスチックのストローを甘噛みして、その店で1番安いアイスコーヒーをゴクリと流し込んだ。
「そんなの、一言じゃ表現出来ないよ。光が当たってキラキラしてて、でも単に明るいっていう訳ではなくて、影が濃くて、緑が緑で。活き活きしてて。」
言葉にすればするほど、頭の中のイメージから逸れていくような気がする。それでも喋り続ける雪乃は終いにはゴニョゴニョと尻窄みしていく。
「だったらさ。描いてみたら良いんじゃない?」
春子はあっさりと言った。それは雪乃にとって瓢箪から駒、いやシルクハットから鳩であった。思いがけないどころか、一周って至極当たり前の驚きである。
春子に言われて雪乃はようやく気付いた。
「そっか、私はそれを描いてみたかったんだ!」
※ ※ ※
雪乃は代々木のアパートのエアコンのある小さな部屋で夢を見た。
雪が降っている。夢の中では寒くは感じなかった。ただ、街を足速に歩く人々の姿は皆縮こまっていた。猥雑な路地にラーメン屋や居酒屋の入った雑居ビルが立ち並んでいる。
目線の高さからして、きっとこれは成人男性のものだろうと雪乃は思った。男はビルのネオンからネオンへと焦点を飛ばして落ち着かない様子である。男が振り返ると、ワゴン車が京王線の高架下をハイビームのライトで雪を照らしながら迫ってきた。男は街灯の横に寄って車を避けた後、眩しさのせいか、狭くて暗い雪空を見上げた。
雪乃はその風景を見たことがあった。それは渋谷駅のマークシティをエスカレーターで降りた先の道だった。男は渋谷駅から道玄坂へ向かっているらしい。
男が視線を下ろすと、彼の目にはファミレスの入ったビルが映る。ファミレスの光は淡く外に漏れ出ていて、寂しそうな街路樹の陰を作る。それは雪乃の知る渋谷とは違う、どこか懐古主義的な感じのする風景だった。
男は車道を渡って、ファミレスに近づく。窓に反射した光が男の姿を映そうとした瞬間、雪乃は目を覚ました。結局どんな人の夢だったか分からず終いだったが、雪乃は夢の記憶が鮮明な内にスケッチを描いた。真夜中のアトリエには、外を走る車の音の間に、鉛筆の擦れる音だけが静かに聞こえた。心を空にして、夢で見た風景のイメージを膨らませると、鉛筆は驚くほど正確にその風景を描き出していた。
※ ※ ※
それからの雪乃は狂ったように絵を描いた。はるたるの見る代々木公園、会社員がオフィスから見るお台場の砂浜、杖をつく老人か足下に見る枯葉とアスファルトに薄くなった"止まれ"の文字。雪乃は眠るエアコンのついた小部屋から、東京に交差する様々な世界を観た。
春子は雪乃の描いた絵を良いと褒めてくれた。春子が言うのであれば、それは端的に良いのだ。雪乃は描いた絵をInstagramにアップした。"Yukino0210"のアカウントは瞬く間にフォロワーが増えていった。その数の大きさに雪乃はただただ驚いた。その数字の1つ1つに視点があって、風景があって、世界があるのだ。きっとその全てを描くのは雪乃には無理だ。それでも出来るだけ沢山描かなくてはと思った。寝て、夢を見て、絵を描いて。それが雪乃のルーティンになっていく。夢はいつも見る訳ではなかったが、意識すると段々と夢の精度が上がっていくようだった。夢の中の視点は学校とか職場とか見るものからどんな人のものなのか想像出来るものもあったし、一体誰の視点なのか分からないものもあった。その中には描くべきかどうか迷う景色もあったが、春子には全部描くべきだと背中を押された。
「良いね。とっても良い。」
河村の手には雪乃の描いた絵があった。ロンドの河村は38歳と若いが、3代目として老舗画廊を継いで飛ぶ鳥を落とす勢いの画商であった。雪乃は春子に紹介されて河村と出会い、とんとん拍子にデビューを打診されていた。
「渋谷というのも良いね。若者らしい。新進気鋭の作家として売り出すイメージがつく。」
残念ながら河村には雪乃の絵のイメージは上手く伝わっていないようだったが、しかし彼の絵を売る才能だけは信頼に値するものがあった。
「それで、やっとその高校生と連絡が取れたんだね。」
河村は目をギラギラさせて言った。銀座の一等地に画廊を構えて、質の良いスーツを着るこの人の目にはどんな世界が見えているのだろうと雪乃は思った。河村には別に大した興味はなかったけれど、現実では何も見えないのだと実感する。エアコンのある小さな部屋の夢の中でしか雪乃は世界を見ることが出来ないのだ。
「はい。この前会ってきました。」
「よしよし。これでようやく売り出せるというわけだね。」
河村には自信があるようだった。美術の世界は
、嘘も張ったりも必要な世界なのだ。嘘みたいな豪華な内装の部屋で雪乃は小さく頷いた。
※ ※ ※
雪乃は代々木公園で、はるたるに会った。彼は晴彦という名前の高校生だった。雪乃と晴彦は代々木公園のベンチに座って話をした。ベンチは夏の強い日差しを受けて熱くなっていたが、雪乃も晴彦も少しづつ我慢しながら座った。雪乃はその絵が夢で晴彦の目から見た風景なのだということを説明した。晴彦は驚きもせず、そうなんだと納得したような様子だった。
「雪乃さんは凄いですね。僕が表現したかった公園の景色を見事にそのまま描ききっているとと思いました。」
蝉の鳴き声に掻き消されそうなほどに、晴彦は小さな声で話した。彼の話によれば、晴彦は写真家を目指しているのだという。Instagramのストーリーに動画をアップしたのは苦肉の策で、晴彦が表現したかった風景を写真に切り取ることができなかったからなのだと雪乃に教えてくれた。
「全然凄くないよ。小さな部屋で眠って、夢の中で誰かが見ている景色を描いているだけ。凄いのはその景色を見ている人の感性だったり世界観だったりする訳で、結局私は空っぽなままなんだよね。」
木の隙間から細い風が通った。晴彦が風のやってきた方向を見る。
「晴彦くんは、どうして東京の風景を写真に撮ってるの?」
雪乃は晴彦の世界を知りたいと思った。本当に誰かの世界を知りたいと思ったのは初めてだったかも知れない。
「不安。なのかもしれないです。」
「不安?」
「自分の見えてる風景が本当に存在するんだろうかって。他の人にはどんな風に見えるんだろうって。だからなるべく現実の客観的な風景を写真に撮りたいと思ってます。」
「そっかー。でももしかしたら、現実なんて私みたいに空っぽで、虚しいだけかもよ。」
※ ※ ※
雪乃の初めての個展は散々な結果に終わった。3日間で売れた絵はたったの2枚だった。絵には確かに人を惹きつける力があったが、結局のところ画家自身に魅力がないのだと気付かされた。絵を気に入ってくれた蒐集家の何人かは、明らかに雪乃と会って話をしたことで購入をやめたようだった。
雪乃はカウンターでマティーニを飲み干した。オリーブの実が痺れた唇に触れる。雪乃はもう何がどうでも良い気がした。夢の中で見た風景は、雪乃がどんなに上手く描いても、雪乃のものにはなっていなかったのだ。世界を共有出来たと有頂天になっていた自分が恥ずかしい。
「誰だって最初の個展はこんなものだよ。むしろ2枚売れたのは凄いことだと思う。」
隣で河村がウイスキーを飲みながら雪乃の肩に手を回した。すっかり絶望した雪乃が河村に支えられながら店を出たとき、外には強い雨が降っていた。アスファルトに出来た水溜りに緩い電灯が揺れる。雪乃は一刻も早く代々木公園のアパートのエアコンのある部屋に帰りたいと思った。そしてまた夢を見たい。出来ることならはるたるの夢が良い。タクシーのタイヤが路面の水を弾く音がして、気付くと雪乃はそのエアコンの部屋にいた。河村もまた雪乃の部屋にいる。河村は勝手にキッチンのウォーターサーバーからコップに水を注いで、雪乃にそれを飲ませた。それから河村は濡れた雪乃の服を少しづつ剥がしていく。エアコンの乾いた音が聞こえる。河村は雪乃に口付けする前に、「俺が売ってやるから大丈夫だ。」と言った。マティーニで痺れた雪乃の唇は何も感じなかった。
シングルベッドは二人で寝るにはやはり狭過ぎて、雪乃は一睡もすることが出来なかった。小さな部屋で、東京の幾重にすれ違う世界の波の中で、雪乃は孤独だった。それが夜の長い冬であったら、きっと雪乃は耐えきれなかったと思う。夏の早い朝の優しい光がブラインドの隙間から救いの糸のように雪乃の身体を持ち上げてくれた。河村に気付かれないように静かにベッドから抜け出して、雪乃は久しぶりにタバコを吸おうとベランダに出た。雨は既に止んでいて、目の前の代々木公園は静かに濡れていた。それは皮肉にも美しい風景だった。
雪乃はタバコの箱を握り潰すと、アパートを出た。雨上がりの朝は瑞々しい空気に包まれていた。雪乃は国道の信号も横断歩道もないところを渡って、代々木公園に向かった。車通りは殆どなくて、静かだった。朝早くからジョギングする夫婦に会釈をして、雪乃はベンチに座った。濡れた座面の冷やりとした感触がデニム越しに伝わる。
「あ。」
殆どため息のような静かな声が、朝の代々木公園には不思議と良く通って聞こえた。それは晴彦の声だと雪乃には直ぐに分かった。雪乃は振り返らずにそのまま逃げ出そうと思ったが、身体が動かなかった。
「なんか悔しくて、また写真撮りに来たんです。」
ボロボロの雪乃の姿を見ても晴彦は静かに彼の話を始めた。あれから沢山の写真を撮ったこと。雪乃が渡したスケッチブックを使って、何度も構図を真似てみたこと。それでもまだ代々木公園の写真は上手く撮れていないこと。静かな朝に静かな晴彦の声は心地良く聴こえる、
「たしかに今日の公園は何か素敵だよね。何度もここは通ってるけど、初めて見る風景に見える気がする。」
「そうですね。雪乃さんにはどんな風に見えてますか?」
「どんな風か。昨日の雨が色んなものを流してくれて、しっとりとした感じ。」
必死に説明する雪乃を見て、晴彦は少しだけ意地悪そうに笑った。そして鞄から厳かにスケッチブックを取り出して雪乃に渡す。
「描いてみて下さい。」
「え?」
「雪乃さんの見ている風景を知りたいです。」
「私の見てるものなんて。描いても何の価値もないよ。私は空っぽなんだから。」
「それでも、僕は雪乃さんの見ている世界を見てみたいです。」
濡れた代々木公園の景色が一瞬震えた。自分の見ている世界ってどんなだっけ。雪乃は鉛筆を持って画面に向かった。葉から落ちた雫だろうか。スケッチブックに透明な染みがポツリポツリと現れた。空っぽだったはずの世界に形が生まれ、色が浮き上がり、匂いが立ち登る。
雪乃は鉛筆を滑らせる。雪乃の目の前には、雪乃の代々木公園が無限に広がっているような気がした。
了
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