出兵前夜

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出兵前夜

 三沢はまだ闇の中だった。  その中を、一組の男女が走り出そうとしていた。 浅見孝一と、形ばかりの祝言を挙げて妻となったばかりの八重子だった。 孝一の元に赤紙と呼ばれる召集令状が届き、かってより想いを寄せていた八重子の家に向かったのだ。  闇。 それは人工的に演出されたアメリカ軍の偵察機や爆撃機から発見されないための工夫。 街灯は常に消され、室内は灯りの漏れないようにカバーで覆う。もし少しでも漏れていたら即座に攻撃の対象となってしまうかも知れないからだ。 誰もが細心の注意を払いながら生活する。 日本全土がそんな状態だったのだ。 その闇は自ら作り上げたものだったのだ。  夜間の空襲に備えて灯火管制ひかれるようになると、明りを家の外に漏らさないように厳しく注意された。 電灯を黒い布で覆ってしまうのが一般的だったが、被せれば光を拡散しないカバーも出来ていた。 どんなに気を配っても照明弾などによっての無差別攻撃は日本各所で起きていた。 八重子と孝一の出逢った埼玉県の奥座敷と呼ばれる秩父さえも例外ではなかった。連日連夜に鳴る防空警報に怯えながらも懸命に生きてきたのだ。 本土決戦に備えて竹槍訓練などもした。 まだ見たことはないけど、アメリカの人は皆背が高いと聞こえていた。だから竹槍は下から突くように言われている。 火事が起きた時に火を消すためのバケツリレーなどと一緒に、秩父の民も懸命に戦っていた。  秩父札所一番、四萬部寺より山へ半里程入ると小さな里が現れる。 そこが八重子の生まれ育った三沢だった。  古くより秩父三十四札所への参道の一つとして、お遍路達を受け入れてきた土地柄でもあった。 人情深い里の人は、おしみのない愛で行き交う人々を見守り続けていた。   八重子はこの地を離れたくないと思っていた。 でも憧れていた、愛する孝一との暮らしの誘惑には勝てなかった。  八重子はこれまで育ててくれた両親に心から感謝しながら、孝一と闇の中にある道を見つめていた。  二人が走ったのには訳があった。 赤紙が来た以上孝一は戦場へ赴かなくてはならないからだ。 だから手に手を取ったのだ。 出来ることなら、戦場なんかに行きたくはない。 でも逃げ出す訳にはいかなかった。 厳しい処分が家族にかかると解っていたからだ。 子供の頃から兄と妹のように育った二人でも、戦時中は憚られたからだった。 二人が供に居られる時間は僅かだった。 だから互いの心の内を語り合いたかったのだ。  終戦の年に届けられた召集令状は二百万にものぼる。 本土空襲が激しくなってからもあくまでも徹底抗戦を訴えた大本営は本土決戦のために二百万の兵士を動員したのだ。  孝一は甲種合格だったので、戦場へ行く覚悟は出来ていた。 だけど、残される家族や八重子が哀れだった。 甲種合格は名誉なこととされた。 だから孝一は喜んだ。 でも一番誇らしげだったのは、父の久だったのだ。 いがぐり頭で国民服を着た二十歳の若者が一同に集められる。 徴兵検査を受けた日から若者は軍の一員としての役割を与えられることになる。 彼等にとっては人生の節目となる大切な一日となったのだ。 何時戦場駆り出されても仕方ないと解っていた。 だからこそ、二人で一緒にいたかったのだ。 ホンの僅かな愛の時間を過ごしたかったのだ。 敗戦の色が濃くなった昭和二十年四月。 二十二歳の孝一の元へ召集令状が届き、かねてより思いを寄せていた八重子の家へと向かったのだった。 そしてこの、闇をついての決行となったのだった。 未来への第一歩を踏み出そうと、二人は呼吸を合わせて何も見えない世界へと飛び出して行ったのだった。 三沢から孝一の住む四番下まで一里ちょっとある。若い二人は少しでも永い間一緒にいたくて、慣れない夜道を走ったのだった。 孝一の家族は三沢で泊まることにしていた。 それは二組の家族の計らいでもあった。 初めての夜を二人だけで過ごさせるためだった。  「もっとこっちにおいで」 もじもじしている八重子を孝一が呼ぶ。 「でも……」 声が上ずる。鼓動が激しくなる。 それでも八重子は逃げもしないで、孝一の次の言葉を待っていた。 孝一に抱いてもらいたい。 八重子はそう願いながらも、はしたないと思い赤面していた。 「いいからおいで」 孝一は少し震えている八重子の手をそっとつかみ、夜具の中に招き入れた。 「この布団は今日からおまえの物だ。これには俺の匂いが染み込んでいる。だからここで寝てほしい。俺のことを思って。俺が帰って来ることを信じて。俺はおまえを思う心を、この布団の中に置いていく。おまえの心を、おまえの身体を、いつも包んでいたいから。俺はおまえが好きだから」 孝一は八重子の首筋に接吻をする。 八重子は目を閉じ、身体を硬直させながら、孝一がやって来るのを待っていた。  夜が白々と開けてくる。 ヒバリはもう高らかに歌っている。 でも孝一と八重子はまだ抱き合ったままだった。 離れがたかった。明日には、辛い別れが待っていた。 残された僅かな時間を、抱き合い、ただ互いを見つめ合っていたかった。  陽が大分高くなった頃、母の節が戻って来た。足の悪い父の久より早く帰宅したのは、八重子を家族に迎える準備のためだった。 親族の見守る中、孝一と八重子は仏壇に手を合わせ、結婚を報告した。 「今日からあなたは家族よ。嬉しい、これでやっとあなたのお母さんと本当の姉妹になれる」 節は八重子と孝一の手を取り、自分の手の中で二人の手を重ね合わた。 八重子は思わず赤面した。 孝一の優しくて激しい愛撫が脳裏を掠めたからだった。 節は目を細めて、そんな可愛い嫁を見つめていた。 八重子の祖父と祖母は、親兄弟全てを土砂崩れで失った天涯孤独な者同士だった。 出先で災難を聞き現場に駆けつけた祖母は、半狂乱になりながら素手で土砂を掻き分けた。 その時、僅かな物音に気づき、村の人と協力して埋まっていた祖父を助けたのだった。 隣の者同士、悲しみに耐えながら、いたわり合いながら生活するようになった。 そして八重子の母ナツが生まれた。 失った家族の生まれ変わりだと二人は信じ、おしみのない愛を与え続けた。 でも幸せは永く続かなかった。 土砂崩れの時に受けた後遺症のために、可愛い盛りの娘を残し、祖父は他界してしまったのだった。  祖母は災害で亡くなった家族と夫のために、親子で秩父巡礼に出発したのだった。 お遍路の旅は、看病と仕事に疲れた母にとって、過酷なものでしかなかった。 出発点になるはずの札所一番にたどり着く前に、三沢で倒れてしまったのだった。 ナツは近くの農家に助けを求めた。 でもあいにく家族は一人もいなかった。 ナツが母親の元へ戻った時、野良仕事を終えたらしい少年が母親の傍らに立っていた。 後のナツの夫との運命的な出会いだった。 農家で暫く過ごした後、母親は無理を承知で再び巡礼へと旅立って行った。 そして四番下までたどり着いた時、浅見家のまえでまた倒れてしまったのだった。 信心深い家族は、すぐに二人を家の中に運び込んだ。 手厚い看護も、可愛い愛娘の必死の祈りも届かず、母親は亡くなってしまったのだった。 母親の死後、ナツは浅見家に引き取られ、節と姉妹のように育てられのだった。 一人娘の節は、兄弟が欲しくてしかたなかった。 自分家の前で倒れた母親に取りすがって泣いているナツを見た時、この子を守ってあげたいと思った。 本当の姉妹になりたいと節はいつも思っていたのだった。 「孝一があなたと一緒になりたいと言った時、夢が叶ったと思ったくらいよ」 目を細めながら節が言う。 「ありがとう八重子さん、本当に……」 節の目には涙が溢れていた。 「これでいい。これで孝一も心置きなくお国のために戦える。頼むぞ孝一、戦争に行きたくても行けない父さんのためにも」 久は若い時に足を痛め、兵役を免れていた。 久はそのことをひどく気にしていた。 健全な若者が次々と出兵するのを地団駄を踏みながら見送ってきた 。 出来ることなら自分も行きたいと願った。 世間の目の中には厳しいものもあった。非国民とさえ呼ぶ者もいた。 そんな中傷の中、久は耐えに耐えてきたのだった。 だから甲種合格の息子は誇りだった。この度の出兵は、至上の喜びでもあったのだ。 戦局は我国に於て、次第に不利になっていく。 でもそれを知らされていない国民の大半は、御国のための辛い別れを、名誉なこととして受け入れるしかなかったのだった。 節の心尽くしの祝い膳をほうばった後、孝一は八重子を伴って、浅見家の墓のある裏山にに広がる金昌寺へと向かった。  秩父札所四番、金昌寺。 四番下と言う地名はここに由来したものだった。 江戸時代中期に建立された本堂。 御本尊は鎌倉時代末期に作られた十二面観世音菩薩。 境内にある千体以上の石仏は、浅間山の噴火によって起こった飢饉の犠牲者を供養するために、六代目の住職の発願で集められたものだった。 久しぶりの金昌寺参拝。 八重子はワクワクしながら孝一の後を追った。 八重子には忘れられない思い出があった。 御釈迦様に甘茶を掛ける花祭りの日、孝一と八重子は初めて会ったのだった。 昭和九年。日本は第一次世界大戦による、戦争景気で沸いていた。埼玉県の奥に位置する秩父地方も例外ではなかった。 人々はこぞって、提灯行列などに参加した。 老いも若きもみな元気に、この悦楽を謳歌していた。 節とナツは、久しぶりに顔を合わせ、思い出話に花を咲かせていた。 ――早くしないと甘茶が終わっちゃうよ―― 孝一は気が気ではなかった。母を急かそうと、前掛けを引っ張ったりしていた。 それでも二人は話をやめなかった。 ナツの母が選んだ参道、三沢。山越えした身体が悲鳴を上げ、ついに倒れてしまった母。母を助けようと必死だったナツ。 節とナツが会うまでの道のりを、節はニコニコしながら聞いていた。 身体を癒やすために、借りた民家は余り裕福そうでもなかった。 それでも道端で倒れた見ず知らずの母に布団を貸してくれた。 暖かいお粥でもてなしてくれた。ナツの心の中に優しさがしみ込んでいった。 三沢はそんな思いやりで包まれた里だった。 だからナツは嫁いだのだった。ナツを励ましてくれた少年の元へ。  孝一がもう一度節を突く。 「分かった、分かった」 節は笑いながら、孝一の頭を撫でた。 「甘茶が終わっちゃうね」 ナツが孝一に耳打ちをする。孝一は照れくさそうに笑っていた。 孝一の催促のおかげで、二組の家族はようやく金昌寺向かうことができたのだった。 子供の頃大好きだった甘茶を、八重子にも飲ませてあげたいと思ったナツだった。本当はすぐにでも飛んで行きたかったのだ。 山門の大きなわらじに向かって八重子が駆けていく。孝一がその後を追う。 小さな八重子が心配でしょうがなかった。 「ギャー!」 八重子が火の着いたように泣き叫ぶ。 大きなわらじの陰から、仁王様が八重子を睨みつけていた。 「恐いよー」 八重子は孝一にしがみ付いていた。 「大丈夫だよ。恐くなんかないよ。ホラ、お兄ちゃんがおぶって行ってやる」 そう言って孝一は背中を向けた。八重子はためらいもなく、それに従った。 「目をつむって」 孝一は自分自身にも言い聞かせた。実は孝一も仁王様がにがてだったのだ。 それを八重子に悟られないように必死だったのだ。 孝一は可愛いらしい八重子を一目見た時から大好きになっていたのだ。 だから弱いところを見せられなかったのだ。 八重子も優しい孝一が大好きになった。 母親同士が運命的な出会いをした様に、子供達もまた同じような体験をしていたのだった。 孝一と八重子は、節とナツに見守られながら淡い恋を育てていったのだった。 門を曲がると、大きなわらじが見えた。 八重子は幼い頃の記憶の中から、仁王様を思い出して足取りが重くなっていた。 もう、孝一の背中にしがみ付ける程子供でもない。 それでもわざと下を向き、孝一が助けてくれのを待った。 山門の前でたたずむ八重子。上目使いで垣間見ると、仁王様はまだそこにいた。 思わず後退りする八重子を見て、孝一は笑った。 恐がりの八重子を自分の前に押し出し、孝一はそっと目隠しをして参道へと誘った。 八重子は、指の隙間からほんの少し見える仁王様を睨みながら孝一に従った。 ――一緒になれて良かった―― 八重子の心に孝一の優しさが染みていた。 境内では桜が満開だった。特に本堂近くにある古木が見事だった。 孝一はまず、先祖の墓に八重子を連れていった。 出兵と結婚の報告をすることで、八重子と家族を守ってもらおうとしたのだった。  それは紛れもない一つの愛の形でもあった。 孝一明日、日本が勝利することを信じて戦地に赴く。 愛する妻を、愛する祖国を異国の敵から守り抜くために。 次に孝一は本堂を上がり、右端にある観音様の前に八重子を連れていった。 「この観音様は子育て観音と言って、子供を守ってくれると聞いている。もしかしたらおまえの身体の中に、俺の子供が宿っているかも知れない。いや宿っていてほしい。今度の戦争で死ぬことがあっても、俺の命、魂はおまえによって受け継がれる」 孝一は八重子の手を握り締めていた。本当は強く抱き締めたかった。 でも人目があった。戦時下では、男女でいるだけで、非国民扱いされた。 それが例え夫婦であっても…… 穏やかそうな笑顔で、じっと子供を見つめる観音様。八重子も愛しそうに、観音様の胸に抱かれた子供を見ていた。 「実は、隠れキリシタンの聖母じゃないかという人もいてね」 孝一は耳打ちをした。英語が禁止されていたからだった。 「分かる、マリア様でしょう」 八重子も気を使って小声で言った。 「きっとそうだわ」 八重子は胸を出したマリア様に手を合わせて、孝一の無事を祈った。 金昌寺参拝を済ませて家に戻った時、近所の人が大勢待っていた。 二人に結婚のお祝いを言うためだった。 お祝いの品の中に千人針があった。 晒の布に心が縫いつけてある。八重子は思わずその心を抱きしめていた。 「まだ二百人分なんだけれど……」 すまなそうにその人が言う。孝一は、千人針を抱いて泣いている八重子毎抱き締めた。 嫁にもらったばかりの可愛い女房と、明日は離れ離れになる。 孝一の目にも涙が溢れていた。 「いいねえ、若いもんは」 隣のおばさんが冷やかす。孝一は慌てて八重子を離していた。 「もう、おばさん余計なこと言わない。ホラ、気にしないで抱きついた抱きついた」 そんな野次の飛ぶ中、八重子は赤面した顔を上げていた。 心からのお礼を言いたかった。でも、涙で言葉にならなかった。 「自分達のためにこんなことまでして頂きましてありがとうございました」 孝一が八重子を気づかってお礼を言ってくれた。 八重子も深々と頭を下げた。  この時八重子十九歳。 敗戦の色は濃くなったと言っても、まだ日本の勝利を信じていた昭和二十年四月。金昌寺の桜に見守られ、一組の男女が、出兵前のほんの短い夫婦生活を悔いのないものにしようとしていた。 孝一の両親は、そんな二人をそっとしておいてくれた。最後の夜なのだから、きっとつもる話もあるだろうに。 八重子は、孝一の胸に抱かれながら、優しい家族に感謝していた。 「八重子頼む。俺の親を頼む。俺はおまえと出会うために生まれてきた。きっとそうだ。だからこんなにもおまえが愛しいんだ。おまえも俺のことが好きならな、俺の親を愛し、そして一緒に待っていてほしい。俺は帰ってくる。必ずここに帰ってくる。おまえを残して死んでたまるか!」 孝一は八重子の身体をきつく抱き締めた。 「孝一さん痛いわ」 八重子は思わず声を上げた。でも孝一はそれを無視した。孝一は尚もきつく八重子を抱き締めた。 八重子はじっと耐えた。孝一の思うがままにさせようと決めたからだった。 何者かに取り憑かれたように、孝一は八重子を求めた。激しく甘く、まるで縄でも糾うように、身も心も一つになろうとする二人だった。 孝一が出兵して行く。りりしいその姿を忘れまいとして、八重子は食い入るように孝一を見つめた。それでも、握り締めた旗がちぎれそうになるまでてを振る事をやめなかった 孝一が見えなくなっても、尚その手で送ってあげようとしていた。  「八重子さん、孝一はもう行ってしまいましたよ」 節に諭され八重子はハッとした。慌てて孝一の歩いて行った道をめで追う。 愛しい孝一はもういなかった。八重子の目に涙が溢れた。 何をしても手に着かなかった 節も同じ筈だった。それでも節あれこれと八重子の世話をやいていた。 「ごめんなさいお母さん。今だけでいいんです。思いっきり泣かせて下さい」 八重子は節の胸にすがり付き泣いていた。 節も泣きながら八重子を抱いてくれていた。 八重子は、そんな優しい母を慈しみながら孝一の帰りを待とうと改めて誓っていた。 戦局は益々激しくなっていく。孝一の便りも途絶えがちだった。 いや殆ど来なかった。 「便りのないのは良い知らせ」 節は口癖のように言っていた。本当は欲しい筈なのに…… 八重子はそんな節のためにも、孝一から手紙が届くことを願った。 ラジオでは、毎日のように軍の成果を流している。 誰もが祖国の勝利を信じていた。 危ないことに気付いた者がいても、決して口に出せないことだった。 もう既に大勢の戦争反対理論者が、憲兵隊に逮捕されたり、拷問などによって殺されたりしていた。 何もかもが狂っていた時代ではあったが、誰もが一丸となって戦っていた。
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