最短距離

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 翌日、僕は失態を犯した。  いつもより30分も寝坊をしてしまったのだ。  目を覚ますと二階の部屋の外から雨音が聞こえてくる。母さんは起こしてくれなかったんだろうか。  時計を見たあとでベッドから飛び降りた僕は一階に降りて洗濯物を干している母親と出会す。 「あ、奏太! あんた寝坊よ」 「知ってる」  学校が始まるのは午前8時45分。ただいまの時間、午前8時30分。  学校まで歩いて15分、走ればぎりぎり間に合うくらいだろうか。  着替えを済ませ、食卓に置いてあった食パンを口の中に放り込んで、僕は雨の中大疾走した。  なんとか時間内に学校に到着し、靴箱で靴を履き替えている時に頭上からチャイムが降ってきた。「やば」と口にはしないが、焦って2階の教室までダッシュ。同じような遅刻組に、生徒指導の先生が「早くいけー」と後ろから叱咤していた。 「はあ……はあ。セーフ……」  教室の扉を開けると、皆が一斉にこちらを向いた。普段なら担任の伊藤先生がすでに教卓の前に立っていてもおかしくない時間だが、今日はまだ来ていないようだった。 「なんだ、板倉か」  誰かが呟く声がして、皆の視線が僕からそらされる。  それにしても。  おかしい。  いつもとはまったく違う教室の空気。クラスメイトたちの三分の一が教室の後方に集まっていて、残り半分以上の生徒は自分の席で後方を見つめていた。誰も口を開かない。恐ろしく静かな空間が、夏場にもかかわらず肺の中にひやりとした空気を運んでくるようだった。  僕は、皆の視線を追うように、教室の後ろの方を見遣る。 「なんだあれ」  僕たちの教室の後ろには、黒板があった。  連絡事項があればいつもそこに書いて全員に知らせるのだが、今、そこにはデカデカと「2年4組 可愛い女子ランキング」の下手くそな字。  タイトルの下には、「1位 池田ななみ」「2位 藤堂亜希」「3位 安藤和咲」に続き、「19位 岡田京子」まで書き連ねてある。 「は?」  思わず口から軽蔑の声が漏れ出る。おそらく、僕以外の全員がこれを見た瞬間に、同じ反応をしただろう。 「なあ、あれ誰が書いたんだ?」  僕は幼なじみの矢部浩人の肩を叩いて問う。  彼は、気まずそうに件の黒板の前に立つ宮沢健一を指差して、 「たぶん、あいつだと思う」  と囁くような声で言った。 「宮沢か」  彼は、黒板の前で数人の男子と集まってニヤニヤしながらランキング結果について「あいつはないな」とか「池田が1位なのは当然だろ」とか、楽しんでいるようだ。  後ろから見つめるクラスメイトたちの冷ややかな視線が、気にならないのだろうか。  僕に、女子の名簿を渡してランキングに投票しろと指示してきたのもあいつだった。その時は男子たちの間でこっそり結果を見て楽しむぐらいのものだと思っていた。  しかし、彼は今こうして、ランキングの結果をクラスの全員の目に触れるように公開している。 「最悪だな」  僕は、静まりかえった教室の中で自分でも恐ろしいくらい黒い声で、彼らに告げた。 「はあ?」  誰だ、と問われる前に、宮沢は気弱な僕の顔を見て、「今なんて?」と目で合図する。 「だから、最悪じゃないかって、言ってるんだ」  ああ、どうしてこうなるんだろう。  僕は生まれてこのかた自ら他人に喧嘩を売ったことも売られたこともなかった。そういうのはもっと派手な奴らが、自己顕示欲に塗れた男たちが、僕とはなんら関係のない世界でするものだと。  それなのに今回ばかりは完全に、僕の方から喧嘩を売ってしまったことになる。  しかも相手はクラスでもかなり影響力をもつ宮沢だ。矢部とは違った意味で、彼の発言には力がある。要するに、「逆らったらどうなるか分かってるか?」という威圧感だ。  くだらない。  そう思いつつ、僕は一瞬身を竦め、「前言撤回!」と叫ぼうかと本気で思案した。  でも、僕らのやりとりを静かに聞いているクラスメイトの全員が——特に、女子たちの目線が、自分への期待のまなざしに思えて。  僕の中の少しの正義感が大きく膨らんでゆくのが分かった。 「こんなこと全員の目に見えるように書いて、何か良いことでもあるの? 傷つく人、いるじゃん」  いま思えば、慎重に言葉を選ばずにこんな台詞を吐いてしまったことが間違いだった。  宮沢が、はんっと鼻を鳴らしたのと、教室から一人の女子が飛び出してゆくのが同時だった。 「まって、和咲!」  教室から出て行ったのは、紛れもなく僕が想いを寄せる少女、安藤和咲。彼女を追いかけるために、仲良しの畑中さんも駆けてゆく。他にも数人の女子が後を追いかけようとしていたが、ちょうど担任の伊藤先生が教室に入ってきて、「待ちなさい」と残りの女子を教室に留まらせる。 「何があったのか、教えてくれませんか?」  先生だって、教室に来るなり女子が飛び出してゆき、後ろの黒板に書かれているランキングを見ても、何が起こったのか瞬時に把握できなかったのだろう。 「あれを書いたのは誰ですか」  罪人を追及する厳しい口調で、先生はのたまった。  僕たちは全員顔を伏せてたり視線を泳がせたりしていたけれど、先生がすぐに「宮沢君」と名前を呼んだので、他の皆は自分に嫌疑がかけられなかったと知ってほっとしていただろう。  しかし僕は、先ほど教室を飛び出す前に安藤さんが見せたくしゃりと歪んだ顔が脳裏をかすめ、先生からの説教に怯えるどころではなかった。あの時、一瞬僕の目を見たのも。それから、彼女が好いているであろう矢部浩人のことも一瞥していた。  僕はあの瞬間、彼女が僕に何を言おうとしたのか、分からない。  でも、彼女が僕に何かしらの感情を抱いたのは間違いない。  その日から、彼女は学校に来なくなった。
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