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なぜこんなことになったのか、僕には分からない。
放課後、僕は今日部活を休んだ。同級生に風邪を引いたと伝えたら、「大会前なのに」と嫌な顔をされた。
いつもの帰路とは違う道を歩く僕の隣に、岡田京子。彼女の表情が心なしかいつもより明るい。そういえば、学校では一人でいることが多く笑った顔や明るい表情を見たことがなかった。
いじめられているのか、と聞かれれば多分そうではない。彼女は彼女自身の意思によって、いつも一人でいるようだった。寂しそうでも悔しそうでもなく、ただ教室にいる。彼女の存在に、どれくらいの人間が注意を払っているだろうか。
「あのさ、今更なんだけどなんでついてきたの」
彼女には周りくどい表現よりも直球で聞いた方が意思疎通がしやすいと思った。
「べつに、理由なんかないよ」
そんなことないだろう。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
理由なく、僕みたいな平凡なクラスメイトの男子についてきたりしない。例えばそうだ、浩人みたいな人気者なら分かる。彼を好きだと思う人間は性別問わずたくさんいるのだから。
頭の中で、安藤さんの切なげな表情が浮かぶ。彼女が見ているのは、浩人の席。いつもいつも、そうだった。僕が見ないフリをしていただけで、たぶんずっと前から、彼女は彼を見ていた。
安藤さんの家に行く道は、坂道が多かった。登ったり降ったり、なんのためにあるのか分からないアップダウンを繰り返して、ようやく「安藤」という表札のかかった戸建ての家に着いた。閑静な住宅街で、彼女の家意外にも玄関先に色とりどりの花の植木鉢が並んだ家が多くあった。
「なんだ、近いじゃん」
岡田さんがふう、と息を吐く。そうだろうか。僕には結構遠く感じたけれど。
目の前に安藤さんの家がある。彼女がこの中にいる、と思うと、僕の心臓は弾けそうなくらい早く鳴り出した。自分の心臓の音をこれほどはっきり聞くのは、陸上部の大会ぐらいだ。
僕は、ごくりと生唾を飲み込み、彼女の家のインターホンを鳴らすため手を伸ばした。が、震えてしまい、ボタンを押すのをためらった。ああ、もう! 自分の不甲斐なさにイライラする。
「深呼吸、したら?」
ふと、隣にいる岡田さんが僕の肩にポンと手を置いた。
深呼吸。
そうだ、陸上の大会のとき、僕はいつも深く息を吐いているじゃないか。深呼吸しようとすると、息を吸おうと必死になる人がいるけれど実は逆で、まず吐かなければならない。息を吐きさえすれば、自然と吸いたくなる。
普段自分が意識していることなのに、忘れていた。そういえば昔、誰かに同じようなことを言った覚えがある。中学の時、部活の後輩にでも言った言葉かもしれない。
僕は思い切り息を吐き、今度は大きく吸った。すると、緊張が解れ爆発しそうだった心臓がようやく静かになった。
「……ありがとう」
「ううん」
この時、岡田さんが女神のように優しく見えたのは気のせいだろうか。もしかしたら、僕が知らないだけで彼女は元来親切な人なのかも。
彼女の視線に見守られながら、僕はゆっくりとインターホンをならした。ビーっという電子音がして、中から「はーい」という明るい声がした。
「あら、こんにちは」
出てきたのは安藤さんのお母さんと思われる女性。僕の母親よりだいぶ若い。お姉さんと言われても信じてしまうだろう。
「こんにちは。突然押しかけてすみません。和咲さんのクラスメイトの岡田です」
好きな人のお母さんを前にして咄嗟に言葉が出てこなかった僕の代わりに、岡田さんは流暢に挨拶をしてみせた。
「同じく、クラスメイトの板倉といいます」
彼女に続き、僕は「決して怪しい者ではありません」というオーラを出して言う。
「始めまして。和咲の母です。和咲を呼びに来てくれたのかな?」
「はい。彼女と少し話がしてくて」
「それはありがとう。良かったら上がって」
初対面の人と接するのにまったく臆さない岡田さんに助けられ、なんとか安藤さんと話せる機会を手に入れた。
「お邪魔します」
僕たちは玄関で靴を脱ぎ、彼女の母親について家に上がらせてもらう。
安藤さんの家は大きくて小綺麗だった。彼女の部屋は二階にあるらしく、お母さんが「ここよ」と案内してくれた。
「和咲、お友達が来てるわよ」
「だれ?」
「板倉君と岡田さん。同じクラスでしょう。あなたの様子を見に来てくれたの」
「……」
部屋の中の彼女は、やって来たのが仲良しの畑中さんたちではなく、僕と岡田京子だということに驚いているのだろう。反応が返ってこないということから窺えた。
「お母さん、あとは僕たちにお構いなく」
「そう。それじゃあ、私は下にいるわ。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
お母さんが下の階に降りていくのを確認してから、僕はようやく現実決心がついた。
彼女の部屋の扉を二階ノックし、「板倉です。突然ごめん」と声をかける。
「……どうしてあなたが」
彼女の声色には、見舞いに来てくれて嬉しいというより、僕が来たことへの戸惑いと落胆が滲み出ていた。
ショックなど、受けないつもりだった。
ここに来る前から、彼女の心に自分がいないことを知っていたから。彼女の中にいつもいるのは間違いなく、あいつだということも。
「心配だったから、見に来たんだ。岡田さんも一緒に」
「あまり話したことないけど、私、岡田京子。板倉の見張りね」
「なんだ、見張って」
「だって、一人だったら安藤さんに何するか分かんないじゃん」
「何もしないって!」
僕らのやりとりを聞いてか、部屋の中から安藤さんの笑い声が聞こえてきた。
「……と、今のは冗談なんだけど、安藤さん最近どうしてるかなって」
緊張しているのは変わらなかった。けれど、適度に僕の気持ちを解してくれる岡田さんのおかげか、いつもよりも素直に言葉が出てきた。
安藤さんとちゃんとした会話をするのは初めてかもしれない。学校では、必要最低限のコミュニケーションしか取らない。一言でも言葉を交わせた日には、1週間分の気分が明るくなるくらい、僕は彼女に心を奪われている。
「私は、元気だよ。板倉君は?」
あくまで部屋の中に入れてくれたり、顔を合わせてくれたりはしないつもりらしい。
きっと彼女が会いたいと望んでいるのは僕じゃない。僕はそれを知っている。でも、自分の気持ちを優先してここに来た。彼女が会いたくないというのなら、限られた時間で彼女に伝えるしかない。
「僕は、安藤さんがいなくて、ちょっと寂しいかな」
扉の向こうで、息を飲む音が聞こえた気がした。
岡田さんは僕たちの会話に口を挟むことなく、静かに見守ってくれている。
「……そっか。ごめんね。でも私、あの時から行く気が起きないの、学校」
知っているよ。1週間前、教室で起きた事件。あんなことをしたやつを、僕はいまだに許せていない。
けれど、周りを見れば、クラスのやつらの大半は、ランキング事件のことなどとっくに水に流して普通に生活しているんだ。
君だけだよ。僕と君だけなんだ。前に進めていないのは——。
悔しくないの? 安藤さんだって、知ってるんでしょう。畑中さんが何度か見舞いに来てるって言っていた。きっと彼女の口からクラスの様子も教えてもらったはずだ。
僕たちだけが、取り残されているなんて、君は悔しくないの。
そう、喉の入り口まで言葉が出かかった。けれど、実際にそんなことを口にしてしまえば絶対に嫌われることが分かっていたから、僕は必死に言いたいことを全部飲み込む。
「安藤さんがショックだったのは、一番じゃなかったから?」
僕は、彼女がどうしたら出てきてくれるのかを必死に考えていた。
それはつまり、彼女が悩んでいる原因を取り除くことに等しい。
となれば、あの日女子の中では上位にランクインしていたにもかかわらず彼女がショックを受けてしまったのは、彼女の中では自分がクラスの女子の中で一番綺麗だという自負があったからではないか。
それを指摘するのは、些か勇気のいることだった。
誰だって、自分のことを認めて欲しいし、自分が何かで一番優れていると思いたい。勉強や部活、趣味・特技。彼女にとって、それは容姿だった。
彼女はあのランキングの存在自体に憤慨したのではなく、その結果が受け入れがたいものだったから、傷ついたのだ。
「……そうだね。馬鹿だよね、そんなことに傷つくなんて。私、自惚れてたんだ。自分が絶対、男の子に好かれてるって思ってた。ううん、私は矢部君に好かれたかった」
決定的な一言。
ああ、そうだ。
僕はその一言が聞きたかった。
僕の心をへし折って、叶わない恋をしていると糾弾されたかった。
そうしたら僕はきっと、君にもう一度向かっていけると思うから。
隣にいる岡田さんは、依然として静かに僕らの言葉を聞いている。こんなところ、他の誰かに見られるなんて、僕の生涯の黒歴史決定だ。
「あいつら、酷いよね。あんなランキング公開しやがって、どれだけの人の気持ちを踏みにじったと思うんだ、てね」
「うん」
「こんなこと聞きたくないかもしれないけど。僕は真っ先に君に票を入れたんだ。……君のことが好きだから」
心の安寧が、もうとうに崩れ始めていて、あと数分もしないうちに壊れてしまうことは分かっていた。何もかも投げ出したくなる前に、彼女に気持ちを伝えたい。ただその一心で。
僕は背中に流れる汗を感じた。岡田さんが小さく息を吐く。僕はつられて大きく息を吸った。
「そう……。ありがとう。でも、私、さっきも言ったけど矢部君が好きなんだ。今もずっと、あなたの言葉を聞きながら、彼のことを考えてる。ねえ、板倉君。矢部君は私に、票を入れてくれたのかな?」
極限まで吸い込んだ空気に息苦しさを覚え、ようやく吐くことを覚える。岡田さんが僕の背中をさする。そんなに僕は、情けない男だっただろうか。
「……ああ。きっと入れたさ。浩人だって、安藤さんのこと気にしてるんだから」
「そっか、嬉しい」
浩人が彼女のことを心配しているというのは嘘じゃない。そうでなければ今日、彼は僕に彼女の家に行くように仕向けたりしなかった。
でも、彼の気持ちの本当のところは分からない。
「それだけでも聞けて良かった。来てくれてありがとう、板倉君」
この時の安藤さんはきっと、どうしようもなくエゴイストで、それは僕自身にも言えることだった。
「っ……」
もうこの場にはいられない。これ以上心が引き裂かれるなんて耐えられない。
たまらなくなって、僕は彼女の部屋の前から離れた。階段を降り、玄関の方へ一直線。
「ちょっと板倉!」
突然方向転換した僕に、岡田さんは戸惑っているに違いない。けれど僕には、彼女のことを気にしている余裕がなかった。
「あら、もう帰るの?」
一階に降りるとお盆にオレンジジュースを乗せた安藤さんのお母さんが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「すみません、長居するとご迷惑なので、今日はもう帰ります」
「全然ゆっくりしていって大丈夫なのに」
「いえ、突然でしたし。お邪魔しました!」
いち早く、この場から去りたかった。
今日安藤さんと話したことを全部忘れたい。少しでも彼女から遠く離れたい。情けない姿を一分一秒でも他人に晒したくはない。
大急ぎで靴を履き、玄関を出ると、自然と足が速く動いた。早歩きから走り出すまで、十秒と経たなかった。
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