いい子の代償

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いい子の代償

 ブランド代込みで六万円。それがわたしが差し出した(きん)の値段だ。手取り月収の四分の一ほどを占めたから、買うのは少しだけ勇気がいった。  それを手放して初めて出社する月曜日はいつもより憂鬱で、だけど八時五十分に着いたオフィスはわたしのことなどお構いなしに、挨拶もはばかられるほどざわついていた。  毎朝一番に来ているのが自慢のお局主任と、コンビニコーヒーを啜り飲むのが日課の課長が席にいない。代わりに人事部長がいて、フロアの奥の方でその二人と話し込んでいるのが見えた。  穏やかでない空気は庶務課の島でも同様で、おは、まで言いかけた口を噤み、わたしはそそくさと自席へ向かう。ちょうどノートパソコンから顔を上げた隣の席の同僚、那珂川芙美と目が合った。 「おはよう、咲玖(さく)」  小声の彼女に合わせて同じトーンでおはようと言いながら、わたしは座った椅子をついーっと横へ滑らせる。ディオールの甘い香りが強くなった。 「ねえ芙美、この空気なに? 朝からどうしちゃったの?」  すると芙美はあたりをきょろっと見回し、これよ、と尖った顎先でパソコンの画面を示し、わたしのほうへ寄せた。PDFに記された『人事発表』の仰々しい明朝体に眉をひそめ、続いた文章にわたしは息を飲む。 『総務部秘書課 畠山涼子 上記の者は就業規則第十七条に反したため、同条の定めるところにより、懲戒免職に処する』  最後に入った今日の日付を目を丸くしたまま凝視していると、芙美が「ちなみにぃ」とひそめた声を間延びさせた。 「十七条違反は横領ね。一発退場ってことはおいくらなんだろ。秘書課のトラブルメーカー畠山女史、やっちゃったーって感じ」  芙美の声は、「次の授業、先生の体調不良で自習だって!」と報告しに来た学級委員を思い出させた。同情的でいながらどこか弾んでいる。 「でもこれ、喜んでる人多そー。畠山女史、言うこと聞きそうな人見つけるの絶妙にうまかったし、咲玖なんかちょいちょい絡まれてたもんねえ。これでもう半年前の領収書の処理やバカ高い会食費の決済、押し付けられることもなくなるっしょ」  たしかに、と苦笑しながら、わたしは内心で拳をぐっと握っていた。それと同時に、これが対価なのだと確信してもいた。こんな早いだなんて思っていなかったけれど。 「それにしてもなにやったのかな、畠山さん」  もう一度辞令に目を通し、わたしは呟く。さー、と芙美が言いながら首を左右にそれぞれかしげた。 「ま、この分じゃ理由はすぐ噂になって広まるんじゃない」  それもそうだ。誰が結婚したとか誰が産休に入るとか、退社して独立した人の成功なんかの喜ばしいニュースは、「へー」のひと言で風化する。それよりも、誰と誰が不倫してるとか、セクハラで懲戒とかのゴシップ的な話に、退屈しているわたしたちは目ざとく飛びつく。 「あれ、咲玖。ネックレスどうしたん? いつもつけてたゴールドのバーネックレス」  ふいに訊かれて私はとっさに淡黄のブラウスの胸元に手を当てた。そこには毎日ぶら下げていた、繊細なカーブを描くバーネックレスはない。代わりのアクセサリーもしていなかった。 「今朝つけようとしたら、チェーン引っ掛けて切っちゃってさ」  わたしはいかにもうっかりらしく半笑いで言うと、あーあるよねー、と芙美が同情的に言った。  その日の帰り、わたしは雑居ビルの前に立っていた。家の最寄りの駅前から少し外れた、カラオケや居酒屋の入るビル。先週の金曜日にも、わたしはここにいた。趣味のヒトカラを存分に楽しむためだった。  バッグを胸にかかえ、表に突き出た階ごとに並ぶ外看板を見上げる。4Fのカラオケ店の上、『5F』とだけ書かれた煤けた灰色の空白をじっと睨み、中に入る。古くて薄暗いエレベーターに小刻みに揺られながら2、3、4と右へスライドする光を見ているうちに、ガタンと音を立てて止まった。5の位置に光は灯らなかった。  ホールを抜けた廊下は、カラオケ店の音が漏れ聞こえてくる以外しんとしている。四階よりも天井が低く、全体的に暗くてカビ臭い。やがて右手に非常階段とトイレの案内板が現れ、わたしはそれを素通りしてさらに奥へ足を運んだ。  突き当りに、ひっそりと閉じた鉄製のドアがある。バッグをさらに強く抱きしめながらしばらく見つめ、わたしは意を決してノブを掴み、引き開けた。  ビルの雰囲気とは対象的な、エキゾチックなジャスミンの香りがふわーっと漂ってくる。あの日、わたしが誘われてしまった香り。胡散臭い占いの館のような暗幕と薄明かりの中、作り物の木が部屋中に鬱蒼と茂る奇妙な空間で、逆さにぶら下がるコウモリのフィギュアが怪しく目を光らせている。 「おや、五十嵐咲玖さん。ようこそおいでくださいました」  青白い肌に真っ黒な髪、白い詰め襟に黒いパンツと裾だけ金色の黒い羽織を着たこの部屋の主が、真ん中に置かれたアンティークソファから立ち上がり、わたしを迎えた。  背はわたしとほとんど同じだけれど、恐らくは『彼』、でいいと思う。この世のものなのか疑いたくなるほど綺麗な顔でいながら声はそれなりに低く、わたしのスキニーも穿けるであろう細い腰をかがめ、にっこりと笑う。 「さあさあ、そんなところで突っ立ってないで、どうぞ中へ。お茶にします? コーヒーにします? それともお酒としけこみますか?」  芝居がかった陽気な調子で彼は言った。すっと広げて招き入れようとする手には、白い手袋がはめられている。 「い、いえ、なにもいらない。それより、聞きたいことが、あるんだけど」 「ええ、ええ、そうでしょうとも。そろそろいらっしゃると思いましたよ。畠山涼子氏、の件ですよね」  彼は彼女のフルネームを言うときだけ声を粘つかせ、今度は手ではっきりとテーブルを示し笑みを濃くする。わたしは渋々、誘われた椅子に腰をおろした。
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