いい子の代償

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 先日ここに来たのは、ほんの偶然だった。カラオケの階のトイレが故障中と使用中で埋まっていて、近くの階段で降りた三階は非常口のはずのドアが開かなかった。仕方なく四階に戻ったらトイレ待ちの列ができ、尿意を我慢できなかったわたしは諦めてさらに階段を上った。  そこは足を踏み入れただけで縮み上がりそうなくらい薄暗く、カビ臭い。テナントも入っていないのか、人の気配もまったくなかった。それでもトイレの明かりだけは煌々とついたから、安心して用を足して戻ろうとした、そのときだった。廊下にエキゾチックな残り香が漂っているのに気づいたのだ。  辺りを見回しても誰もいない。だけど廊下の奥のほうに、光るなにかが落ちているのが見えた。わたしはなんとなく近づき、それを拾って天井の蛍光灯にかざす。銀色で、ところどころにターコイズの石が飾られた、華奢なブレスレットだ。シルバー、いや、プラチナだろうか。 「おおーっと、あったあった、そこにありましたか! いやあ、あなたが拾ってくださったのですねえお嬢さん」  わたしはひゃあっと声を上げた。トイレを済ませていなかったら、間違いなく全部垂れ流していたと思う。足音も気配もなかったにもかかわらず、その人はわたしのほとんどすぐ後ろにいた。 「ああ、これはこれは失礼。驚かせてしまって申し訳ない」  ばくばくと早鐘を鳴らす心臓を押さえつけるように胸に手を当てていたわたしは、ゆっくりと呼吸を整えながら、その人をまじまじと見た。青白い肌に真っ黒な髪、白い詰め襟に黒いパンツ。裾だけ金色の黒い羽織。ひょろっとした体躯と首の上に乗った、中性的な綺麗な顔。その人が、お面を貼り付けたみたいに笑う。  綺麗だけど、なんだか怖い。警戒を促すように、腕の表面が薄手のカーディガンの下でそばだった。 「私、実はそこの奥に事務所を構えている者なのですがね、それは大事な大事な預かり物なのです。ささ、こちらへ」  一礼ついでに器にして差し出した両手に、運転手がするような白い手袋がしてあった。わたしは恐る恐るその上にブレスレットをしゃら、と落とすと、「ありがとうございます」と選挙活動中の政治家のような礼を述べた。  事務所といい預かり物といい、ワードがいちいち怪しすぎる。引きつった声でいえ、と告げ下に戻ろうとしたら、 「お嬢さん。あなた、お悩みがあるでしょう」その人は突然確信めいた様子でわたしを引き止めた。  わたしは思わず顔をしかめた。ますますヤバいと思ったからだ。「いいえ、これといって」  話を聞いたが最後、壺かパワーストーンか絵を売られるやつに違いない。わたしは大股で歩き出す。 「ですがうまくいってないことがあるとお顔に書いてあるのですよ。それもお仕事。特にひどいのがお一人。あなたは常々、邪魔な女性だと思っているのではありません?」その人はわたしの拒絶を物ともせず言った。  そんなの、OLに訊けば半数以上はイエスと答えるだろう。そう思うのに、わたしの足は止まってしまった。 「厄介事をよくあなたに押し付けようとする人らしい。特にお金周りですね。お若いあなたよりずっと力を持っているせいで、あなたは強気に出れない。その上……おやおやこれはこれは、脅されているのでは? 穏やかじゃないですねえ、物騒ですねえ。ずいぶんお困りのように思いますが……、そうですかあ。お悩みではありませんかあ――」 「なんで」  気づいたら、身体ごとぜんぶ振り返っていた。わたしはよろめきそうになるのをなんとか堪えながら、もう一度なんでと呟く。エキゾチックな香りが、また一段と濃くなった気がする。 「わたくし、カルマと申します。よろしければ、少しお話していきませんか」  いつの間にかうつむき加減になったわたしの目の前に、白い手袋の手が差し出されていた。 「さあて、畠山涼子氏のお話をお伺いしましょうか」  いらないと言ったのに、カルマはわたしにローズヒップのブレンドティーを供し、向かいのソファで身を乗り出す。いい報告だとわかっているからか、やたらとごきげんだ。反してわたしはいまだ所在ないまま。ティーカップの赤い水面に映る、自信なさげな自分に視線を落とした。 「……カルマが、知らないわけないでしょう。なのにわざわざ言わせる気?」 「ええ、お話しください。いかんせんあなたははじめてのご利用ですから。ご依頼内容とその対価がきちんと見合ったか、依頼者ご本人様からお聞きせねば」  わたしははあっとため息を吐き、重たい口を開いた。 「……畠山涼子は、今日付けで懲戒解雇されたわ。理由は、あくまで噂に過ぎないけど、営業課長が彼女の姪御さんに痴漢、したらしくて。それを脅しの材料に、横領を繰り返してたって」  カルマが満足そうにゆっくり何度もうなずいている。わたしは続けた。 「最初はホテル代とか食事代を、出張や会食って名目でやってたの。でもエスカレートして、さらに大きな額の横領をするよう迫ったって、聞いた。それでとうとう課長のほうが、耐えきれなくなったみたい」  最後には「素晴らしい!」と手まで叩いた。手袋越しの張りのない拍手じゃ素晴らしさはまったく伝わってこなかったけど、自分が属する会社でそんなことが起きていたなんて驚いたし、一方でやっぱりか、とも思った。  彼女には、なにか絶対裏がある。わたしを脅してきたときに確信した。今もまだ、あのどろどろに煮詰めたような声が耳元で生々しく蘇るのだ。 『五十嵐さぁん。ちょっと見てほしいものがあるんだけど、ちょっといーい?』 『これ、五十嵐さんと企画課の高橋さんよねえ? ホテルに仲良く入っていくの、あたし五反田で偶然見ちゃったのぉ』 『やだっ、誤解しないでね? あたしは恋愛は自由だと思ってるし、当人同士がよければいいって。ただ高橋さんの奥さんの梨花ちゃん、退職したけどあたしの元同期だからさすがに気になるっていうかぁ……。それにしても、『いい子』な五十嵐さんが不倫とか結構意外ー』 『あっ、そうだ。全然話変わるんだけど、どうしても通してほしい領収書があってぇ。返事は来週でいいよー、もう定時過ぎちゃったしねえ。じゃ、お先ぃ、おつかれさまぁー』
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