いい子の代償

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 30%オフの黄色いシールが上書きされたお惣菜の空容器の先でスマホが震える。雅弘さんからの着信だ。  夜に電話なんて、半年ほどの付き合いの中で初めてだった。惰性でつけていたテレビを切り、はい、と出る。 「庶務課の五十嵐咲玖さんですか?」  女性の声だった。淡々として知的で、気の強そうな声。わたしは反射的に背を伸ばし、身体を硬くした。心臓にドッドッと胸を叩かれ、息が自然と細くなる。 「は、い」 「高橋雅弘の妻です。いつも夫がお世話になっております」  一度でいいから口にしてみたかったセリフを、彼女は言い慣れた口上のようにわたしに向かって言った。  お世話になっております。頭がぐるぐるになりながらもオウム返しにする。  なんで、なんで? どうしていきなりこの人から電話がくるの?  バレないようにと普通のメッセージアプリでは一切連絡しないし、業務メールだって使ってない。あるのはちょっとマイナーな、ワンタイムチャットツールだけだ。互いが読んだらすぐに消え、ログのたぐいも残らない。逢瀬だって家や会社の最寄りは避けて、ひとところに決めることはしなかった。  だけど明日の金曜日は、先週のうちに交わしていた約束があった。 「突然お電話してごめんなさいね。でもどうしてもお聞きしておきたいことがあって。できれば直接お会いしたいのですけど、お時間作っていただけるかしら」  日時と来ていただきたい場所をお送りしますね。  彼女はわたしに拒絶する隙を一切与えず、最後まで平静なまま電話を切った。わたしの手からはすっかり力が抜け、ツーッ、ツーッと電子音が流れた瞬間スマホごと床に落ちる。  やがて宣告どおり短く震えたそれを、採血のときに注射で血を抜かれる瞬間を見るように薄目で見やった。  二日後の土曜日午後一時指定で、新宿にあるホテルラウンジのURLが送られてきた。その吹き出しを、続けて届いた写真が押し上げる。畠山涼子に撮られた、ホテルに入ろうとするわたしたちの写真だった。  次の日の朝イチで向かった企画課に、彼はいなかった。体調不良で休みらしい。少しでいいから本人と話がしたかったのに、これじゃどうにもならない。今日の約束も反故になるのだろう。  当然ながらわたしも仕事にもならず、「顔色ヤバいよ」と芙美に言われて早退したその足であの駅ビルを訪れた。5Fの奥のドアを引き開ける。甘ったるいジャスミンの香りが漂う作り物の森の中、部屋の主は「おや」と組んでいた脚をほどいて悠然と立ち上がった。 「お早いお帰りですね、咲玖さん」  わざとらしい笑顔で迎えるカルマにわたしは脇目もふらず大股で進み、「ちょっと」と詰め寄った。 「どういうことよ!? 離婚させてって言ったじゃない。なんで彼との関係がバレなきゃいけないの? あんたの仕業なんでしょう! わたしは円満に離婚してほしかっただけなのに!」 「おおっと、咲玖さん咲玖さん、落ち着いて。認識を誤られては困ります」  カルマが両手を盾になだめにかかる。これほど至近距離に迫っても、彼の表情は蝋人形のようになめらかなまま、顔色どころか眉の位置すらも変わらなかった。 「最初からそういうお話だったでしょう」  彼の手が肩に触れた。怜悧な声に加え、人じゃないかのような冷たさをした体温がブラウス越しに伝ってきた。一瞬ぞっと震えが起こり、わたしはたちまち黙り込む。 「先日お支払いいただいた貴金属に見合った分だけ、お手伝いをしたまでです。あなたの望みはなんでしたか? 高橋雅弘を離婚させてほしい、でしたよねえ。円満に、だなんて初耳です。ゆえにお支払いに対してもっとも確実かつ見合った結果が、不貞行為の発覚だったわけです。畠山涼子氏が撮った写真、お二人の顔もホテル名も看板に至るまでよーく写っておりましたねえ。ご休憩三時間で五千円から。全室レインボージャグジーにカラオケつき――」 「ふざけないでよ!」  聞くに耐えずカルマの肩を力任せに押し返した。  本当になんでこんなことになったんだろう。離婚なんて望むべきじゃなかった? それともこいつの言うところのもっといい貴金属を用意すればよかった?  ううん、違う。そもそも不倫なんかさせた奥さんが悪い。それから畠山涼子。あの女があんな写真さえ撮ってなかったら。そうだ、そっちを先に対処するべきだったんだ。  わたしはカルマを睨むように見た。なんです、と彼は涼しげに言う。 「ねえ、今からでもあの写真をなかったことにできないの?」 「残念ながら時間を遡ることは不可能です。奥方様が知ってしまったことは覆りません」 「じゃあっ! ……なんでもいいわ、とにかく奥さんにあれがわたしたちじゃないってどうにか思い込ませてよ!」 「ふぅーむ、そういうことならできなくはないでしょうが……」  ちら、とカルマがわたしに流し目をよこした。懐具合を探られているような、嫌な目だった。 「ちょっと待ってなさい」言い捨ててわたしはビルを出る。小さな銀行のATMはおばさんがひとりいるだけで、ひとつ飛ばして機械の前に立った。ふた月分くらいの生活費が残っていれば、きっとだいじょうぶだ。  掴んだ封筒にATMが吐き出した現金を入れ、今度は貴金属店に向かう。華奢なネックレスやかわいいピアスは目に入らなかった。そんなのじゃあの男は相手にしてくれない。  いらっしゃいませ、と迎えてくれた女性の店員さんにわたしは声をかけた。 「あのっ、すみません。金塊ってここで買えますか?」
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