いい子の代償

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「夕飯食べていったら?」母の申し出を断って実家からとんぼ返りし、わたしはまたあの店のドアを開く。 「おや、咲玖さん。最近ご利用頻度が高いですねえ。今回はどうされました?」  とうとう立って出迎えもしなくなった珍妙な主につかつかと詰め寄り、テーブルをバン、と音を立てて叩いた。 「わかってるんでしょ、わざとらしいわ」 「わかりませんよ。千里眼でもあるまいし」カルマは冷笑を口元にたたえ、ゆっくりと首を横に振る。  あれからラインは鳴りを潜め、それがかえって不信感を募らせた。どうせわたしが知らないところで、別の盛り上がりを見せているだろう。退屈なみんなはそうやって、他人事のゴシップを面白がる。  わたしはテーブルに残った手の痕の上に、仕入れたばかりのブローチとネックレスをじゃらじゃらと置いた。時代遅れのトンボより、古ぼけた月より、わたしはわたしが一番かわいい。 「同期にまであの写真が出回ってるの。どうにかして」 「ずいぶんと乱暴で曖昧な言い方をなさる。それではやりようがありません」 「やりなさいよほら! 払うって言ってるでしょ!」もう一度テーブルを叩く。アクセサリーが揺れ、妖しげな照明の光を鈍く跳ね返す。 「高校でも大学でも『いい子』ポジションで、好きな人なんて振り向いてくれなくってさあ。やっと成就した恋だったのよ。それがやっと夢が醒めた気分になって、せっかくちょっと、不倫なんかやめて新しい恋しようかとか、思った矢先にこれ。本当になんなの? それ持ってくるために、親のところにまで行ってきたのに……」  やりきれない思いが迫ってきて、気づけば泣きそうになっていた。こんな涙なんかどうでもいいから、ひと雫が金や銀にでも変わってくれたらいいのに。 「お気持ちはお察しします」  静かな声が降ってきて、たちまち冷水を浴びせられた気になった。お気持ちなんて微塵も入ってないだろうし、察しもしてくれてないのが嫌味なほどわかる。 「慰めなんかいらない。とにかく、払ったんだから仕事して!」  それだけ言い残し、わたしは店を出た。  これできっと月曜日になったら、またいつもと変わらない日々が待ってる。資料を用意し会議をして議事録を作り事務仕事を淡々とこなす、平凡で退屈ながら尊い日々が。  だけど、そんな望みは砂の城よりもずっと脆かった。  出社したら、待ち構えていたように人事部長に「おはようございます、五十嵐さん」と呼び止められた。人事の、それも部長と直接話すなど、新入社員研修以来なんじゃなかろうか。その分嫌な予感しかしなくて、足が竦みそうになる。  課には話を通してあるからと、そのまま会議室エリアへ連れて行かれた。わたしはほとんど罪人のような気持ちで、部長のかっちりとプレスされたグレーのスラックスの裾から覗く茶色い革靴を見ながら歩いた。  部長が開けた部屋の四人がけのデスクには雅弘さんが肩を縮めて座っていて、彼はわたしと目が合うなり顔をそむけた。スーツを着ているのに、土曜日のホテルラウンジで見た彼の姿と重なった。  その瞬間、はっきりとわかった。この人はもう、わたしの味方になりはしないのだ。  部長に雅弘さんの隣の席を促され、椅子を少し離して腰を下ろす。部長が向かいに座った。 「さて、朝からすまんね。単刀直入に言うと、先日から社内の人間の内部告発じみた画像がSNSを通じて流れているようで、君たち二人がそのうちの一枚に収められている。それの中には人の手によって作られた合成もあったらしいんだが……」  そこで部長が言葉を切り、雅弘さんの方を見た。彼が小声で「すみません、ごめんなさい」とひたすらに謝る。「ごめん、ごめん咲玖ちゃん……本当にごめん……」  隣で彼は、ますます背を丸めて小さくなった。  先にこっちが折れるなんて思わなかった。わたしはあんなにも身を削ってなんとかしようとしたのに、この人は喋って楽になるほうを選んだわけだ。馬鹿。最低。裏切り者。  それから部長がいろいろ話した気がするけど、頭が全然働かず話の途中で「帰ります」とぼそっと告げ、席を立った。どちらにも引き止められることはなかった。  どうせ今ごろ部内中の噂になってる。退屈しているみんなにとって、不倫は格好のネタだから。  まだ通勤ラッシュの抜けきっていない上り電車を尻目に、人もまばらな下りに乗り込む。バッグを覗いてみても貴金属なんてもう残ってない。使えない真珠のネックレスがあるだけだ。  そういえばスマホはレアメタルとか使ってるんだっけ。まるごと渡したら、少しは足しになるのかな。ラインの未読は百を超え、もう読もうという気も起きなかった。  電車を降り、駅ビルを見上げる。看板もなければエレベーターのランプもつかない空白の5Fの奥のドアを開ける。 「おはようございます、咲玖さん」  青白い肌に真っ黒な髪、白い詰め襟に黒いパンツ。黒い羽織の金の裾を払いながら彼は立ち上がり、わたしを出迎えた。 「いらっしゃるころかと思っておりましたよ」  本当に、癪にさわる。わたしはぎりっと奥歯を噛み、「ねえっ」と迫って襟元を掴んだ。相変わらず彼の表情は少しも乱れず、涼やかな微笑すらたたえている。 「結局全部バレちゃったじゃない! どうしてくれんのよ!」 「おやおや、それはそれはご愁傷様でございました」母が言うよりずっと軽薄にカルマは言う。「ですがそれは残念かつ当然ながら、私の責任ではございません」 「そんなっ……!」 「望みがあるなら代償を。さあ、お支払いは金ですか、銀ですか? それともほかの金属ですか?」  彼はわたしを蔑むように見下ろし、わたしに決断を迫る。  そんなのわかってる。こいつが望む金属(もの)を差し出し、わたしの望みを言えばいい。だけどわたしにはもう残っているものなんて――。  ……いや、ある。ひとつだけある。わたしが持ってるもの。  わたしは襟から離した手でスカートをたくし上げ、ストッキングごとショーツを思い切り引き下ろした。 「おおっと、その手の誘惑は私には効きませんよ」 「違うわよ! 生理中なの、経血、血よ! あんただったら匂いでわかるでしょう!? わたしもうこんなくだらない悩みなんかごちゃごちゃ背負いたくない!!」ナプキンに染み込んだ暗い赤から生臭いにおいが立ちのぼり、部屋の香りを一瞬かき消す。 「血は鉄でしょう!?」  叫ぶように言い放った。  ほう、とカルマが眉を上げた。
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