彼女たちの式

1/3
前へ
/3ページ
次へ
「いったい!」  窓から落ちる光は既にサーモンピンクで、コーラス部の発声練習が、テニス部の掛け声が校庭から聞こえてくる。  その声をBGMに、家庭科室の机に大きく白いサテンの布地を広げて、一生懸命に針を通している女の子たちの姿があった。  綾乃は涙を浮かべながら、太い針で刺した指を舐めようとすると、「駄目よ」と手を取られた。  癖毛がひどくて、無理矢理三つ編みにまとめてしまわないと髪が広がり過ぎてみっともない綾乃とは違い、沙耶香の髪は広がることを知らない真っ直ぐな黒い髪は、密かに綾乃が憧れているものだった。  沙耶香はポケットから手早く絆創膏を取り出すと、くるりと綾乃の刺した指に巻き付けた。 「刺したからって舐めちゃ駄目よ。膿んでしまったら大変だわ」 「大袈裟だよ。今までも舐めてきたけど、膿むようなことなんてなかったから」 「そんなに刺したの?」  沙耶香にサラリと聞かれて、綾乃は「うう……」と縮こまった。  家庭科の授業の課題。グループでひとつ服を提出して、ファッションショーを開くというもの。グループからモデルをひとり用意して、残りの皆で彼女に合う服を縫う。クラスでひとつテーマを選んで、それぞれのグループがそのテーマに沿った服をつくってファッションショーを開く。  綾乃と沙耶香は一緒のグループで、ちくちくと服を縫っているのだが。綾乃が製作側に回ったのは別に手芸が得意だったからではなく、モデルに向いていなかったからという理由だけだから、作業は遅々として進まない。縫い物が得意な沙耶香の足を引っ張ってばかりだと、綾乃は申し訳なく思う。  ファッションショーまであと二週間もないし、他のグループは既に完成させて、服に似合うオプションもあれこれとつくっているというのも耳にしている。それがより一層綾乃を焦らせていた。  綾乃がシュンと落ち込んでいるのに、沙耶香は彼女の頭を撫でる。 「落ち込まなくってもいいのよ。綾乃は人より作業が丁寧なだけ。早ければいいってもんでもないわ。これだったら、玲奈だって喜ぶでしょう?」  今は縫い物しているふたりのために、購買部に買い出しに出かけているモデルの玲奈の名前を出され、綾乃はうな垂れる。 「玲奈、野暮ったいって怒らないといいけど……」 「怒らない怒らない。すごくいい仕上がりになっているんだから。さあ、頑張ろう」 「うん……」  綾乃は手をグーパーグーパーと広げてみせた。絆創膏で多少動きが取りにくいものの、これならば縫い物には支障はない。  ふたりは再びサテンの布地に針を通しはじめた。  淡く波打つスカートには、スカートの端に波の刺繍が入り、光が差すたびにその刺繍が淡く光る。スカートのひだのひとつひとつにスパンコールが縫い付けられ、とてもじゃないがミシンだけで縫える代物ではなかった。  少女マンガのヒロインが着ていたドレスは、誰もが夢を見たけれど、実際につくるのはとても骨が折れる。マンガを持ってきて「これを着たい!」と言ってきた玲奈を恨めしく思いながら、綾乃は再びスパンコールを縫い付ける作業に戻った。 「おっまたせー! ふたりとも! 作業ははかどってる!?」  ガラッと家庭科室の戸が開いたと思ったら、手に持った白い袋をぶんぶんと手を振り回す玲奈の姿があった。  釣り目を長いまつ毛で縁取り、勝気な目は印象的に見える。髪は光の加減で栗色に光り、ハーフアップにまとめている。はしゃいだ言動をしていても、彼女の仕草のひとつ、動作のひとつがいちいち洗練されていて、ついつい目で追いかけてしまう魅力がある。  笑っている玲奈に、沙耶香はくすりと笑う。 「買い出しお疲れ様。生地が濡れないように、空いてるテーブルに置いてね。綾乃も休憩しましょう」 「うん。玲奈、ありがとう」 「はいはい。アップルティーとレモンティーでよかったよね」  玲奈は沙耶香にレモンティーを、綾乃にアップルティーを渡すと、自分はピーチティーを取り出して、ペットボトルの蓋を捻った。  夕焼けのサーモンピンクが強くなり、いよいよ夜が来るのが見える。 「ねえ、先生。てっきり反対すると思ったのに。今年はウェディングドレスのファッションショー、通ったんだね」  玲奈がそうポツンと言うのに、綾乃は思わず家庭科室の戸の外を見た。今は放課後。皆部活や委員会活動に勤しんでいて、廊下には人ひとりいない。  ウェディングドレス。結婚願望なんて未だに他人事ではあれども、一度くらいは憧れるものだが、この学校ではこの話題はデリケートな問題になっていた。  聞いてはいけない見てはいけない口にしてはいけない。  いつしかこの話題は、この学園内では口にするのもためらわれる話となっていた。  綾乃がハラハラしているのに、沙耶香はレモンティーを傾けながら微笑む。 「気にし過ぎよ。誰もいないし、別に話のタネにしてもいいでしょう?」 「で、でも……先生に怒られちゃう」 「先生だって今はいないんだからいいじゃない。ウェディングドレスの噂。あれだって出来過ぎてて本当なのって怪しいもの」  綾乃は玲奈のその奔放さを心底羨ましく思いつつも、肝が冷える感覚が抜けきらない。それに玲奈は「怖がらなくったって、別に大丈夫だって」と言葉を載せる。 「だってさ。コンクールのためにウェディングドレスを縫っていたふたりが駆け落ちしてしまったって噂。逃げ出さないといけないことってなんだったんだろうって思うんだよ。私たちには逃げ場なんてないのに、あのふたりは逃げきれたのかなって、話を聞いたときから不思議だったんだよね。そんな証拠をいっぱい残して、さも捕まえてくださいってせず、跡形もなく逃げればよかったのに、まるで思い付きでいなくなったみたい」  そう玲奈は一気にまくしたてながら、ペットボトルを傾ける。それに綾乃はちらりと沙耶香の横顔を盗み見る。  沙耶香は珍しく難しい表情を浮かべながら、ペットボトルに口を付けていた。  この学園の授業料はとてもじゃないけど一般家庭では支払うことができず、どの生徒も社長令嬢だったり芸能人の娘だったりと、なにかしら家庭の事情が存在している。学校の行き帰りは実家からの車によるもの、外に出て学校帰りにカラオケに行く、買い食いをするなどの行動は固く禁止されていた。  ここは檻の中。いつかは誰かと結婚し、檻の看守が変わるだけ。この学園の少女たちはそれが普通のことであり、だからこそ、このウェディングドレスの噂話は先生たちに聞かれないよう、ひっそりと語ることしかできなかったのだ。  綾乃の実家は比較的新参の家なため、人よりも少しだけ贅沢できる程度のお金しかなく、車での送り迎えを除けば、家では比較的自由にし、他の子たちのように稽古事を大量に詰め込まれている訳ではない。  ただ、大手薬品メーカーの令嬢である沙耶香は、既に婚約者も存在しているし、梨園の末娘である玲奈はスキャンダルは梨園全体の問題になるため厳禁だということを知っている。  沙耶香は玲奈に言う。 「そんなこと言ってはいけないわ。だって、そのふたりの話は希望なんですもの」 「希望ってなに? それに続いていく人なんて私、見たことないもの。夢って見るものであって、叶うものじゃないでしょう?」 「もう、玲奈ってば意地を張るんだから」  そう言って肩を竦める沙耶香を、綾乃は複雑な思いで見ていた。  沙耶香に巻いてもらった絆創膏が、今は苦しい。さっき巻いてもらってもらったときは嬉しかったはずなのに。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加