修行

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 ヤスオは自分を探していた。青春の終わりに、子どもと大人という境目の中で葛藤していた。  彼はそんな中で、周りの友人たちより少し重たく人生をとらえていたかも知れない。もう少し気楽に考えた方が生きやすいかも知れないということだ。  そんな彼は自分を見つめながら答えを求めてさまざまなことに挑戦し、見、聞いた。  そして今、ある山奥の寺の修行場へやって来た。  山深く、高い木に囲まれて不気味ささえ感じるこの寺では、出家せずともいくつかの修行を本格的に体験させてくれるという話を聞いて訪れたのだった。  年は30代半ばくらいの、細身だが締まった顔体の指導役の僧が修行の体験希望者に説明をした。  こういう体験修行というのは今、人気があるらしく、10数人の男が申し込んでいた。  体験希望者の顔を見渡して指導役の僧が話を始めた。 「体験修行といいましても、中身は当寺の最初の修行と同じものです。それなりに厳しいものですから、心してやってください。始めは、決められた形でただ座っているだけでも、そう容易くできものではありません。ですから、自分で無理だと思ったら、すぐにやめてもらってけっこうです……では、参りましょうか」  先導する指導役の僧について行き、駆け出しの僧が着る薄い着物に着替えを済ませて「修行場」の部屋へと通された。そこは、板の間の広い部屋で、言って見れば武道場のような感じの場所だった。裸足で歩く板の間というのは、慣れないとそれだけでもけっこう苦痛に感じられ、顔をしかめたくなったが、こんな出だしでリタイヤするわけには行かなかった。 「皆さん並んで座ってもらいます。座り方は、まぁ当寺の決まりの形での座り方がありますから、これから教えます。それで座ってもらって、一定時間を過ごすのがまず第一段階です」  そう説明を受けて座り方を習い、ここでもう、上手く出来る人とそうでない人とが現れて、出来ない人には僧が一人ずつ手取り足取り教えた。そうして座り始めただけで、「足が曲げられない」とか「座るだけで足やら尻やら、痛くてたまらない」と、仰け反ってゴロリと倒れ修行を断念するものも数人いた。  そうして難度を上げながら修行は続いた。  最初は、ただ座るだけ。慣れると今度は「体が揺れないように」とか、さらに「正しい、美しい姿勢で」とかハードルが上がって行った。  ヤスオはそれらのハードルを何とかこなしていったが、とにかく「座っているだけ」とは思えない辛さがあり、山奥の寺の冷気の中で全身から汗が噴き出た。それはもう、「自分を探し、見つけたい」という思いより「自分の体の柔軟性の欠如や、辛さにいかに堪えるか」という問題に置き換わっているように感じた。 「まぁ、皆さん一日でここまで来ましたが、なかなか大したものです」  指導役の僧は落ち着き払った顔で体験者に言った。 「この修行体験は一応、7日ということになっています。途中、無理だと思う方は、早めに申し出てください。山を下りるのも無理なんてことになると、いろいろ大変ですからね」そんな風にうそぶく。  1日目が終わってヤスオは残れたが、10数人いた体験者は7割に減っていた。そして、2日目にはさらに半分になり、3日目にはついにヤスオ一人になった。朝起きて修行場にヤスオが顔を出したとき、彼一人だったのでビックリした。ヤスオは、本物の修行は厳しいなと思ったし、日程の半分も行かないうちに体験者が帰ってしまったのでは評判も落ちるのではとも思った。なにしろ、もう自分しか残っていないのだというのは、恐ろしくもあったし気を重くさせた。 「おはようございます。とうとうお一人だけになってしまいましたね。今日も頑張りますか」 「あ。は、はぁ……」 「今日からの修行は、またちょっと感じが違います。……人間にとっての「欲」や「煩悩」を振り払うことに挑戦してもらいます」 「なるほど。それはお寺の修行らしいものですね」 「そうです。本当に僧を目指すなら、身の回りには簡素なものしかありませんよね。頭は坊主で、着るものは派手さがなく、食事も必要最低限……そこで、今日から、その「欲」を捨てる修行として、まず「我慢する」ことを憶えていただきます」 「我慢ですか」 「そう「我慢」。難しい話ですが「何かに対する欲求を我慢すること」と「欲を捨てる」というのは意味が違います。すぐに捨てることは出来ないと思いますから、まず我慢する所から始めるのです」 「わかりました」  ヤスオは、欲を我慢するとはどういうことかと思った。 「では、ここにいつものように座って待っていてください。そして、修行が始まったら、あなたは修行の姿勢のまま、手を合わせて正しい姿勢で欲に負けないよう微動だにせず居てください。一定時間堪えられたら、また来ますので」 「わかりました……」  ヤスオは言われたとおりに修行場の板の間に座り背筋を伸ばして手を合わせ、目を閉じて、一節だけ習ったお経をごく小さく口に出していた。  そんなヤスオの所へやって来たのは、何やら食べ物の香りだった。フッとヤスオが目を開けると、彼の目の前には豪華な料理がいくつも並んでいた。ヤスオは唾をゴクリと飲んだ。ここ数日、寺の食事を出されたが、脂気のない簡素なものだった。食べた気がせず、ひもじくて容易に眠ることも出来なかった。そのヤスオの前に、肉やら魚やら豪勢な熱々の料理が並べられている。 「あぁ……あぁ」  呻くヤスオの前に、若い僧が数人現れて、料理を皿に取って彼の前に差し出し、さらには箸でつまんでヤスオの鼻先に持ってくる。ヤスオは思わずパクリと食べてしまいそうになったが、なんとかなんとか堪え続けた。  しばらくすると指導者の僧が来た。 「やあ、よく我慢できましたね。おみごとです。今日はこれで終わり。ごくろうさま」  そう言って感心そうに笑った。  ヤスオは、その晩に、まだ目の奥に焼き付き鼻の奥に匂いが残るうまそうな料理を思い出しながら簡素な寺の食事を口にした。  翌日。 「今日は、堪えられますかなぁ」  指導役の僧が超然とした顔でそう言いながら、修行場の戸の向こうへ消えて行った。  ヤスオは一人、息も白くなりそうな寒々とした板の間の修行場に座して手を合わせた。  目を閉じているヤスオの周りに何かの気配がして、やがて、 「フフフ」  耳元で女の声がした。  ウッと思ってヤスオが目を開けると、薄物の着物を着た目にも鮮やかな、そして淫らな笑いを浮かべた女性が何人も彼の周りにはべっていた。そして、ヤスオの膝や腕に体を押しつけてきて、顔を寄せて唇を突き出し微笑みかけて来た。 「食欲の次は性欲か。なるほど……これは」  ヤスオにとって、今目の前に居る女たちは、かつて彼が恋人にしたこともない美女ばかりだった。 「フフフ」と笑いかけられることに「うぅーうぅー」と呻って返し、経文の一説を唱えながら、揺れ動く心と体を真っ直ぐにして堪えた。  そしてまた時間が過ぎると、指導役の僧が修行場の戸口に現れ、そうすると女たちは、サッと立ち上がりあっという間に引き下がって行った。 「やりますなあ。これに堪えるとは、大したものだ」  そうしてその日もなんとか修行をやり終えた。  その晩、ヤスオは布団の中で泣いた。 「これは自分が見つかる修行なのだろうか」  それは考えても分からなかった。  修行の最後の日、ヤスオは自信を持って迎えた。今日を堪えきれば明日は最後にありがたい話を聞いて終わりと言うことだった。  前日の夜に布団の中で泣いたせいなのか、何か心がスッキリとして晴れていたのだ。 「これは、自分の心から欲が消えたのかも知れない」  そんな充足感があった。  ヤスオは冷たい水で顔を洗い身支度を調えて修行場の板の間の中央付近のいつもの場所に腰を下ろし足を組み姿勢を整え手を組み合わせた。準備完了である。  ヤスオはすでに心穏やかになり、ただただ「何が訪れるか」を待ち受け、もうそれが例えどんなものでも揺るがぬ心頭を持ち得た自信に満ちあふれていた。下品に言えば「もう、何でも来い」という気分だった。  彼は修行の姿勢のままで目をつぶり、そうしてしばらく待っていたが、今日は指導役の僧も、心惑わす役の誰かも、何者も現れる気配がなかった。それで彼は、「こうしてわたしをじらすことで動揺させるのか?」と、そんな気もしたが、そういうこともまた彼にとってはもう、大した効果は無かった。  彼はまたさらに落ち着いてゆっくりと瞑想の世界へ踏み込んでいった。  やがて彼の周りの何かの気配を感じた。 「とうとう来たか。この気配は人ではない……なんだろう?何でもよいサ。臨むところ!」  彼はそう思いながらもすぐには目を開かず、足を組み手を合わせた姿勢のままでいた。  だがやがて彼の膝元に何かが触れ、ざわざわとそれらの感覚がいくつも増えていくのを感じた。そしてそれらは彼の膝の上から徐々に腕の辺りに取りすがり肩に乗り、頭の上にさえ乗って来た。  ヤスオはまだ目を閉じていた。自分にすり寄る何かが何であるか恐怖に怯えながら、けれどついに目を開いてみた。  彼の想像していたものが体の周りに、目の前に集団をなしていた。 『にゃー、にゃー』  子猫たちが鳴き声を上げ、モゾモゾとヤスオにすり寄り、中には小首をかしげヤスオを見つめていた。それを見たヤスオは「イカンっ」と、すぐさままた目を閉じたが、閉じてはいられなかった。彼は手が震え、いつの間にか膝の上に眠る愛らしい子猫の頭に惹きつけられ無念に震える手を置いて撫でてしまった。 「アアアァ。こんなことが……これは『なに欲』なんだ……負けた」  ヤスオは呻きながら子猫に頬摺りをした。  修行場の扉の陰で指導役の僧は口元に手を当て、してやったりと笑みを浮かべてヤスオを見ていた。
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