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Chapter.10
今日は朝から雨模様。大学もあまり人がいなくて、よつかどへの客足もまばらだ。
カウンターの内側と外側にそれぞれ座って会話する。店長は手持無沙汰だと言ってカウンター後方の棚に並ぶグラスを端から拭いている。私は銀盆を腿の上に立て、その上に手を乗せてもてあそびながら、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「やっぱ雨の日は暇やなぁ」
「そうなんですねー」
「あれ? 入ってきてから雨の日、初めてやっけ?」
「はい。記憶にないです」
「そっか。やっぱさぁ、サクッと家帰りたい思うし、一回家帰ったら外出たくないみたいでさぁ」
「あー、なんとなくわかります。今日は大学もあまり人いなかったです」
「そういうもん?」
「はい。いまリモートでも授業受けられるので」
「はぁ~! 時代は変わったなぁ~!」
店長は思いのほか感心して、腹の底から声を出した。
「森町さんは出席してんのんね」
「ここのシフトが入っている日は、そのほうが都合がいいので」
「あぁ、店、中間地点にあるもんな」
「はい」
こうして雑談をしていても、状況に変化はない。
「雨の日はいっそ、店休んだろかな思ってんけどさ」
「えっ」
「いや、いまは森町さんもおるし、シフトの日数減らすんも悪いからやらんけどね? お客さんもたまに来てくれはるし、定休日でもないのに休んで、雨ン中わざわざ来てくださったのに開いてへんとか申し訳ないしさぁ」
店長は最後の一個のグラスを拭き終え、食器棚に収納した。
「さて。ほんまに暇になってもた」
「そうですねぇ……」
窓の外の雨が弱まる気配もないしお客さんが来る気配もない。確かにこれは店休日にしたくなる気持ちもわかる。
「……なんか作るか。なにがいい?」
「え、いいんですか」
「うん。まかないで出すよ」
「わぁい。ありがとうございます」
いままでは遠慮してたけど、断ると店長がしょんぼりしてしまうから(それはそれで可愛いけど)、なるべく素直に喜んで、お願いすることにした。
お客さん用のメニューを見てうーんとうなる。「なんでもいいですか?」
「もちろん。飯とドリンクとかのセットメニューでもいいよ」
メシ……と言われてカテゴリ分けされたメニューに視線を移す。サンドイッチや各種トースト、ホットドックなんかのパン食と、ピラフやカレーのお米系、ナポリタンなんかのパスタもある。全部店長お手製だ。
店長が作るご飯は美味しいけれど、もうだいぶ遅い時間だし、あとは帰って寝るだけだから太りそう……と一瞬で考える。
「魅力的ですけど、カロリーオーバーになっちゃうので、暖かい紅茶が飲みたいです」
「そぉ~?」
腕を振るってくれるつもりだったのか、少し残念そうに、未練を感じる返答をして店長がお湯を沸かす。
ティープレスに茶葉を入れ、お湯を注いだ。私の前にカップとソーサー、ティープレスを置いて、店長は自分用のコーヒーを淹れる。
細くて長い指が魔法のようにコーヒーを作っていく。無駄のない鮮やかな手つきでドリップ式コーヒーを作る所作が好きだ。
何気ない手つきで淹れているけれど、きっと相当の練習を積み重ねているはず。
バイトを始めたばかりのころ、ふと興味が沸いてネットで調べたことがある。
バリスタの資格を取るための講座やセミナーがあるほどで、全ての知識を得るのは大変そうだなぁ……なんて思った記憶がある。
レジの後ろにある柱の上部に掲げられた認定証と、店長のエプロン、胸のあたりに付けられた金色のバッジ。それらはバリスタ認定試験の合格を示すもの。
取得条件を読んでもさっぱりわからなかったその試験を、店長はどれだけ努力して獲得したのか。
以前同じように来客のエアポケットが訪れた時に聞いてみたけれど「う~ん、大変やったねぇ。まぁもう、習得した技術やからなんでもないけど」なんてはぐらかされた。
店長はあまり自分のことを語らない。
店長と同年代のお客さんで、たまに自分語りが止まらない人がいるけれど、店長は徹底して聞き役にまわっている。それが仕事だからと言われれば確かにそうだけど、普段もあまり、話したがらない場面が多い。
たいがいそういったお客さんは、話を聞いてくれたことと美味しいメニューに満足して嬉しそうに退店し、それからペースはまちまちだけれど再来店してくれる。
そうしてできた常連さんは、みな店長のファンだ。
そういうところも尊敬できるし、また好きになっちゃう要因で、一緒に働いているときに遭遇すると、あぁ、まただ、とあきらめに似た感情を抱く。
服従した犬のようにお腹を出して寝転がりたくなるくらい、ことあるごとに惹かれてしまう。
人たらし――その言葉は、本当に店長にぴったり。
「紅茶、そろそろええよ」ティープレスを指して店長が言う。
「あっ、はい」
店長の所作に見とれていたことはバレているだろうか。それともそんな視線、慣れっこなんだろうか。
特に私を意識することもなく、店長は自分用に淹れたコーヒーをすすった。「ん。うまい」
「紅茶も、美味しいです」
「そやろ?! 産地にこだわってん。そのうちティースペシャリストの資格も取ろか思っててさぁ」
それから、ティースペシャリストとはなんなのか、どうしてここでお店を開こうと思ったのか、どんな幼少期を過ごしたのか……普段絶対聞ことのできない、店長のプライベートを聞くことができた。
それがとても嬉しくて、私はすっかり上機嫌になった。
案外オタクっぽいところがあるんだなぁ、とか、ちょっと子供っぽいかも? とか、新たな発見もあって、好きだなって目尻を下げてしまう。
瞳を輝かせて夢や目標を語る店長は、いつも以上に魅力的に見えた。
帰りに店長と一緒に店を出ると雨はあがっていて、うっすらかかった雲が風に流され、きれいな満月が見えた。
「すごい月明かりですね」
「きれーやなぁ」
上を見ながら一歩踏み出したときに危うく転びそうになって
「おっと」
よろけた私の腕をつかんで店長が助けてくれた。
「あぶなっかしいなぁ」
「すみません」
「怒ってるんちゃうよ」はい、と差し出された左手に、おずおずと右手を乗せる。「うん。帰ろ」
そう言ってそのまま手をつないで私の家まで送ってくれる。
「ほかのやつにさせたあかんで? 森町さん無防備やから、変な気おこすやつおるかもしれん」
「店長は」起こしてくれないんですか?“変な気”。聞いたらひかれちゃうかなぁって言えなくて。
「うん?」
「紳士ですもんね」
「そうよ?」
私の少し拗ねたような言葉に笑って、家の前まで送り届けると手を離した。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい。お気をつけて」
「うん」
さっきまで繋いでいた手を振って、店長はいま来た道を戻る。
いまはこれで満足……しなきゃって思う。
私はまだ店長からしたら子供で、幼くて、ただのバイトの女の子。
いつか店長の“特別な人”になれるまで、もっと魅力的な女性になろうと決めた。
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