Chapter.1

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Chapter.1

 好きになったのはいつの頃からだろう――。  いつも遠目に気になっていた店の前に立つ。名前は【喫茶 よつかど】。  文字通り、裏通りの四つ角にポツンと建つ小さな二階建てのビルの一階部分に、その店はあった。古めかしい外観と店名。さぞ歴史ある店だろうと思いきや、開店は五年前とまだ若い店だ――なんて地元タウン誌で得た情報を反復しながら時計を見る。 (よし、5分前……)  深呼吸して、【準備中】の礼が提げられた重たいドアを押す。力ロランコロラン。鈴なりに吊るされた大小のカウベルが乾いた音を立て、来客を報せた。 「はーい」  カウンターの奥、カーテンで仕切られた空間から声がして人が出てきた。 「こんにちは。お客さんでしたら準備中ですけど、面接の方?」 「はいっ! 本日アポイントメントを取らせていただきました森町と申しますっ」  息つぎなしに言い切って、ペコリと頭を下げる。 「はい、森町さん。お越しいただきありがとうございます」  その男性は関西弁で答えて、人懐っこい笑顔をふわりと浮かべた。 「こちらへどうぞ〜」  男性はカウンターから出て店の奥へ行こうとして、「あ、ごめんなさい。そこのドアのカギ、閉めてもうていいですか? 間違えて入ってきはるかもしれんので」私の背後を見た。 「あっ、はいっ」  振り返って取っ手の付近を探すと、コンロの点火スイッチのような突起があった。指でつまんでカチリと回す。多分、これで大丈夫。  前へ向き直ると、男性は人懐っこい笑顔のまま「助かります」ニコリと笑って歩を進めた。 * * * 「ちぃちゃい店なんでねー? 募集しようか迷ったんですけど~」渡した履歴書を封筒から出しながら笑顔になり、胸ポケットからペンを取り出した。「はい、それじゃあ始めましょか。店長の佐奈田(サナダ)っていいます~」 「森町(モリマチ)と申します。よろしくお願いします」 「はい、お願いします」  店の奥、小さなテーブルをはさんで二人でおじぎした。 「森町~、かえで、さん」 「はい」 「4月から大学生?」 「はい。すぐそこの」割と有名な大学名を口にして「文学部に入学しました」履歴書に書いた経歴を口頭でも伝える。 「ほうほう。この時期求人はいくつもあったと思いますけど、なぜうちを選んでくれたんですか?」 「ずっと喫茶店で働いてみたいと思っていて、大学生になったので探したのですが」 「はい」 「昼間の時間でしか募集がなくて…こちらの勤務時間でしたら、授業が終わったあとに出勤できる、と思って」 「あー、うち夜間しかやってないからねぇ。なかなかないですよねぇ」 「はい」 「喫茶店やからお酒は出さんのですけど、たまに終わりが遅くなることがあるんです。そういうとき、終電とか大丈夫そうですか?」 「はい、歩いて帰れるので」 「あら、ほんま」言って、店長さんは履歴書を再確認する。右斜め下の【本人希望欄】を見て「あ、交通費不要?」かすかに瞳を輝かせた。 「はい」 「あらあら、そうなんや。そしたら採用で」 「はい。……えっ」 「いつから来れます? こちらはいつでもええんやけど」 「えっ。いいんですか? そんなにあっさり……」 「ええのええの。話した感じと履歴書の丁寧さで人柄はだいたいわかるし。そこの大学の生徒さん、たまに来てくれはるから、大学の人(知り合い)()うてもええんやったら~やけど」 「それは、はい。大丈夫です」 「ほんなら良かった。じゃあ、これからよろしくお願いします」 「こちらこそ、お世話になります」  お辞儀をして、初出勤の日程を決め、店を出た。  とても緊張して臨んだ人生初のバイト面接は、思いのほかあっさり、すんなり終わる。そして、初めての上京、初めての一人暮らし、初めてのアルバイト……初めて尽くしの生活が始まった。 * * *  初出勤日、面接の日に教わった【裏口】横にあるインターホンを押す。しばらくして、店内から店長さんが出てきた。 「おはようございます〜」 「おはようございます!」  両手を腿の脇に付けて姿勢を正す。思ってたより声が大きく出て、少し恥ずかしい。すぐに苦笑を浮かべた私を見て、店長さんがふわりと笑った。 「いままでおれしかおらんかったゆるい店やから、しゃちほこばらんでええですよ」  初出勤に緊張した面持ちの私を店内へ誘導してくれる。  初めて入るバックヤードは、ほんのりコーヒーの香りがした。 「じゃあ、エプロンは支給します~。洗濯は自分でお願いします」 「はい」渡されたデニム地のエプロンを胸に抱く。 「誰か雇うん初めてで、ごめんやけどバックヤードがあんまり女の子仕様じゃないのよね」 「全然、大丈夫です」  言われてみれば確かに必要最低限の設備しかない小さな部屋を見渡す。けれど特に居心地が悪いわけではない。むしろ不要なものがなくて使いやすいし、清潔に保たれていて気持ちがいい。  渡された鍵で細長いロッカーの扉を開けた。扉には、シールに手書きされた私の名字が貼られていた。 「そこのロッカー、森町さん専用でつこていいから。仕事に使うもんとか私物とかも入れて帰ってええけど、貴重品は持って帰ってね。施錠は忘れずにお願いします」 「はい」  コートとバッグを入れて鍵を閉め、新品のエプロンを身にまとう。似合っているか気になるけど、鏡をしげしげとながめるわけにもいかない。でも…… 「お、似合う似合う」  店長さんが褒めてくれたから、きっと大丈夫。 「ロッカーの鍵も、辞めるまではずっと持ってていいから」 「はい、ありがとうございます」 「いいえ~。わからんことあったらすぐ呼んでね。店長でも佐奈田でも千紘(チヒロ)でも、呼びやすい呼び方で」  そう言われて、店長さんのフルネームを初めて知った。 「じゃあ、店長で」 「はいはい。そしたら早速やけど、仕事を教えていきますね~」 「はい!」  店長にOJTを受けながら、憧れの喫茶店バイトが始まった。  覚えることがありすぎてアワアワしたけど、お客さんはほとんど常連さんばかりで優しくて、店長の教え方も上手で、次第に楽しくなってくる。 「いや~、助かるわ~」  お客さんの波が途切れたところで店長が笑顔になった。 「いままで一人でやってたからさぁ~。忙しいときは休憩も取れんくて。全然ええんやけど、トイレ行くのも大変やったりさ」 「それは確かに……」  裏路地にある小さなお店なのに、ひっきりなしに来客がある。  店内の飲食はもちろん、テイクアウトのお菓子やお茶だけを買って帰る人もいる。  実際にお店で使ってるコーヒー豆や紅茶の茶葉、キッチンで作っている軽食類はわかるとして…… 「このお菓子とかも、店長が作ってるんですか?」  レジの横に置かれているクッキーやフィナンシェ、カップケーキの包みを見ながら聞く。 「ん? いや? すぐ近くにベーカリーがあってさ。そこのん仕入れさせてもうてんの。営業時間もそんなにかぶらんから、宣伝にもちょうどええなぁって」 「へぇ~、そうなんですね」 「食べたいんあったら奢るし、休憩中にでも自由に食べていいよ。全部いかれたら困るけど」 「いえ、そんな、食べるときはちゃんと買います」 「真面目やなぁ」レジカウンターの中、ハイチェストに座って頬杖をついた店長が笑う。「しゃちほこばらんでいいよ~ゆうたのに」 「お仕事中ですから……」 「まぁそのうち、リラックスしてくれたらええよ」  のほほん、と笑ったその笑顔に、不覚にもときめいてしまったのは、もちろん内緒だ。 * * *
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