アングレカムの花束を

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 閉じてと言われた瞼の上を、繊細な筆先が滑っていく。  普段の自分が雑にこなしているメイクをこうも丁寧に施されるのは、なかなかどうしてくすぐったい。それが十年来ではもうきかない、二十年ちょっとの付き合いになる幼馴染の手によるのだから、面映ゆさもひとしおだ。  結婚式のメイクはこの親友に頼むのだと、もう長いこと決めていた。メイクアップアーティストになると宣言した彼女が、プロになるまで待ってなねと言い置いたその日から。  バージンロードはお父さん、ベールダウンはお母さん。それらとまったく同じように、ヘアメイクは遥のためのものだった。 「ねぇ、咲紀は覚えてる?」  いたずらめいて遥が尋ねた。  その声は、彼女が今どんな顔をしているのか見えないのが惜しいくらい楽しげに響く。 「なに?」  瞼を透かして透明な光が揺れている。それと遥の淡い影。  白を基調に設えられたふたりきりの控室は、なんだかミニチュアのチャペルみたいだった。 「『遥と結婚できますように』」  彼女がそらんじたそれには覚えがあった。  時間がぐっと引き戻される。  薄暗くて静かな部屋。あれは保育園のお昼寝の時間だ。七夕の手前、先生が一人ずつ子どもを呼んで、短冊の願い事を訊いていた。  遥と結婚できますように。伝えると、先生が戸惑うのがわかった。そしてそれはできないのと私に教えた。  代わりの願いを尋ねる声に追い詰められた。星に願いをかけることすら許されないなんて、叶う叶わない以前の問題だ。びっくりして哀しくて、身も世もなく大泣きしたのを覚えている。  結局折れたのは先生の側だったけれど、植え付けられた哀しみが消えてなくなるわけじゃない。  短冊にはそう書いておくからねとなだめすかされ、布団に戻されても泣き止めなくて、どうしたのと慰めてくれた遥に全部を話した。 「遥、お嫁さんにしてくれるって言った」  覚えてると答える代わりに伝えると、「うん」と頷く声が笑みを含んで優しく揺れた。  咲紀は私のお嫁さんねと遥は言って、タオルケットの海に潜って指切りをした。  薬指にもらったキスにドキドキした。パパやママがくれるのよりもっとずっと特別で、一等神聖なキスだった。  お返しに贈った拙いそれをキスに数えていいのなら、私のファーストキスはあの瞬間に違いない。  遠い昔の約束は、確かに胸に息づいていた。 「開けていいよ」  促されて目を開く。  重たいまつ毛をひとつふたつまばたくと、鏡の中の見慣れない自分と目が合った。  不思議なほどきらきらした私がきょとんと私を見つめている。 「え、」  思わずこぼれた声にあわせて鏡の『彼女』の唇が震える。それでようやく『彼女』が私自身だと、本当に信じられた。  心にふわりと花が咲く。感動やときめきや喜びみたいな種類の花が。  なんてすごいんだろう。これは魔法だ。  世界一はさすがに誇大広告がすぎるけれど、間違いなく人生で一番綺麗な私がそこにいる。 「気に入った?」  得意げな遥に、惚けながら深く頷く。  他の誰かじゃこんな風にはできなかった。私自身や私の好みを知っている、遥だからこその特別。 「あのあと、わりと真面目にあんたをお嫁さんにする方法考えたんだよね」 「え?」 「結婚はできないって親も言うし、でも約束しちゃったし」  さっきまでの会話の続きだ。私たちが叶え損ねた、数少ない約束の。 「だからあの頃の私の夢、シンデレラの魔法使いだった」  遥の握るリップブラシが不思議な軌道を描いて揺れる。  お嫁さん。魔法使い。ビビディ・バビディ・ブー。 「するってそっち?」  灰かぶりの女の子をお姫様に仕立てたのは、確かに魔法使いのおばあさんだけれども。  そこでふと思い至る。 「ねぇ、遥がメイクアップアーティストになったのって」  彼女はただ微笑むだけで、なにも答えてくれなかった。でもそれが、遥の真実だと思う。  メイクがもう終盤でよかった。下地から丁寧に塗り重ねられたファンデーションが、赤くなった頬や目元を隠してくれるに違いない。  リップのキャップが外される。  これまで使っていた色とりどりのパレットではなく、私も持っているような、黒くて艶のあるスティックだった。 「約束、だいたい果たせたと思わない?」 「結婚してくれないのに?」  意地の悪い質問だった。  芽を摘んだのは私のくせに。 「一生ならとっくに誓ったつもりだけど?」  簡単そうに遥が言うから、なにも考えられなくなる。  だって私は確かに遥とそういう風になりたかった。薬指のリングもお揃いの苗字も要らないから、ずっと一緒の約束が欲しかったのだ。小さな子どもが夢みる『結婚』そのものを、遥と続けていたかった。 「しってたの?」 「何年あんたの親友やってると思ってる」  ぬるいものが胸に溢れる。温かく澄んだ湧水だ。  あまりに唐突だったから、思いがけず叶った願いに眩んでしまう。  陶然とするうちに、唇に色を乗せられた。  今日の遥とお揃いの、しっとりと落ち着いた深い赤。 「だから次はあんたが叶えて」  爪の先まで綺麗な手が、今しがた塗られたリップを差し出している。  刻まれた、『Saki.M』の文字。新しい苗字の刻印だった。 「幸せになりな」  新しい約束を贈られる。私が叶えて果たすべき。  してもらえとは、言わないところが遥らしい。 「うん」  大切に頷いて、手のひらに託された硬い感触を包み込む。 「ありがとう」  私の大事な魔法使いは、どういたしましてと囁きながら、そっと目元をぬぐってくれた。  よく晴れた六月の、幸福な午後のことだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!