144人が本棚に入れています
本棚に追加
/119ページ
冬の晴れ間を流れてゆく綿雲、波音、濃い潮の匂い。
坂下の心配通り甲板は冷える。師走の山颪が頬や耳を切る中、鴎が幾羽も頭上を飛び交ってゆく。
秋朝海運の蒸気船が入港する際は、汽笛と呼応するように町じゅうの鐘が鳴る。役場や学校、居留地の教会、ついでに今日は菩提寺の笙寛寺までがごぉんと鐘を撞く。中でもやはり、港に近い居留地からの音は一際大きく海風に乗って耳に届くような気がする。
「まったく志津眞様は。いつまで経っても童のようですねぇ。余りおじじ殿に心配をお掛け召さるな」
沢良木桐吾に外套を着せられ山高帽を被せられ、追って来た坂下から小言も貰い、私は華族の顔を作らねばならない。
秋朝家は五年前の法令により伯爵位を賜り、東京に居を構える事も義務づけられてしまった。叙爵は辞退も出来たのだろうが(安芸浅野家の例もある事だし)、子供達の事、家臣の事、そして国元の事を考えると『都会が嫌いだから』で辞す事は到底無理な話だった。
後継の和眞が従五位(※貴族と称される最低限の位階。華族の嫡男は満二十歳で自動的に与えられた)を賜り帝国大学を卒業するまでは隠居する訳にも行かず⋯⋯⋯⋯
どんなに嫌でもあと数年は東京に
「─────志弦」
私の声に、桐吾は愛用の遠眼鏡を港に向ける。緋の絨毯が敷かれ、当主の帰郷を出迎えてくれるその赤い道の先に、長男の志弦が待っている。
「ああ本当だ! 若様、此度はお加減が宜しいようにお見受けできますよ! 嘉之丞殿は相変わらず難しいお顔です」
「どれ私にも」
「いい加減、ご自分でもお持ちになれば宜しいのに」
「普段はおまえが目を利かせているのだから必要ない」
最初のコメントを投稿しよう!