初めてのキス

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初めてのキス

 朝日で煌めく水面、心地よい波音。初夏の晴れ晴れとした早朝の砂浜にて、私は……、大声を張り上げていた。 「むっ、無理ッです!! わっ、私には絶対無理!!  き、気持ちわるい!」 「大丈夫、大丈夫。気持ち悪いって思うのは最初のうちだけだから。馴れたら平気で触れるようになるわよ♪」 みっともない声をあげている原因は、今日初めて出会った遥(はるか)さんのせいである。  再就職先が見つからず、へこんでいた私に話しかけてくれた、大人な雰囲気の彼女。  そんな遥さんは、今日、釣りをするためこの砂浜にやってきたそうだ。そんな彼女に、私は釣りに誘われて。  釣りなんてやったことがなかったけど、テレビで芸能人がやってるとこは見た事があるし、魚が釣れてる様子はなんだか楽しそうだし。だから軽い気持ちで釣りのお誘いを受けちゃったのだが……、私は今そのことに激しく後悔している。    だって! 正面にいる遥さんが、虫を近づけるからだ!  遥さんが右手に持っている小ぶりの透明なパックを、少し私に近づけた。 「いひゃあっ!?!?」  パックの中にウニョウニョした、ミミズみたいなのがたくさんいる!! わわっ!?  しゃがみ込んでいた体勢から慌てて動いたせいで、尻もちをつきそうになる。でも、遥さんがサッと左手を伸ばした。私の右手が掴まれる。 「そんなに慌てないの。危ないでしょ?」 「す、すいません……、って、いやいや!?!? 遥さんのせいですよっ!? ミミズを近づけるから!」 「ああこれはね、石ゴカイって言うの。キスを釣るエサとしてよく使うものよ」  遥さんが、透明なパックを砂浜に置いたかと思うと、なんのためらいもなく指で、石ゴカイという生き物を掴んだ。 「ちょ!? ちょっと!? めちゃくちゃ動いている!?」 「そりゃあ動くわよ、生き物だもの」 「そ、そういうことじゃなくて! ―――って、なっ!? なんで私の手の上に持ってくるんですか!?」  遥さんが、石ゴカイという謎のウニョウニョ生物を、あろうことか、私の右手に近づけだした。 「え? だってキスを釣るには、まずエサを針につけないと。そのためには、触れないと……、ね?」 「は、遥さんがつけて下さいよぉ!? わ、私には、む、無理無理無理!! さ、触りたくな―――」 ポトリ。 「いっ!?!?!?」 私の目が一点に集中する。手のひらでウニョウニョと暴れる、石ゴカイ。何とも言えない、のたうちまわる感覚が私の、手、手のひらに伝わってくる!! 「ひっ!! ひっぎゃ―――」 「叫んじゃダメよ!」 「ひゃい!?」 「噛まれるから」 「何に!?」 「そんなに大声だしたら、石ゴカイが驚いて噛みつくわよ~」 「うっ、うそ……!?」  そんな凶暴なの!? この石ゴカイって!? そ、そんなの、手にのせないでよおおおお!! い、今すぐにでも手をぶん回して払いのけたい!! でも、遥さんが私の手を掴んでいるからどうしようもできない!! ただ、耐えるのみ。   「う、うおおおおッ……!!」  つい、低いうめき声がこぼれる。そうでもしないと、正気が保てない。 「ねっ? 意外と慣れるもんでしょ?」  そんな訳ないでしょ!? 今の私の状況を見てなぜそう言え―――、  ポトリ   「おおッ……!?」 まさかの2匹目だった。私の手のひらで、ウニョウニョ、ジタバタ……。もう最悪の光景と感触だった。わ、私の理性が……!! ふ、吹っ飛びそう!! 「う、うお、う、うおおおお……! ぐ、くっはぁっ……!!」    ズサッ! 私は思わず両膝を付いた。もう、完全にKOされた感じ。なんか……、どうにでもなれ。 「あ、あら? 千佳ちゃん? 大丈夫?」 「ふっ、ふふっ、何がですかぁ……? もう、何でもこいですよ……、ふふふっ」 「あら…………、もうなんか目があれよ。死んだ魚のような目をしてるわね」  例えがひどすぎる。というか、誰のせいだと思ってるんですか、誰の……!!  私がジトーっとした視線で見つめていると、遥さんがニコリと笑う。 「餌つけは私がやってあげる。特別サービス♪」 「!?」  だったら……、触らせないでよ……っ!! 石ゴカイをッ!!  遥さんが、私の手のひらから石ゴカイ2匹を回収。そして、1匹だけつまむ。  ……、私さっきまで、ウネウネした石ゴカイというものを触ってたんだよね……。あんな気味の悪いものを……。  でも、心の片隅で、別にもう触れなくもないかと思っている自分がいた。……はぅ……、女子としての何かを失った気がする……。 「まずはね、石ゴカイの頭から針につけるのよ。あっ、見て見て、口からちよっとトゲみたいの出したり引っ込めたりしてるでしょ? これ小さな牙」  あまりじっと見たくないが、確かに石ゴカイの口らしき部分から、小さく黒い何か爪みたいなのが、シャコッ、シャコッ、と出入りしている。挟まれると意外と痛そうだ。もし……、大声を出し続けていたら私、この牙に噛ま―――、 「あっ、大声を出したら驚いて噛みつくっていうのは冗談だから」 「!?」  う、嘘つき!! 「まあでも持ち方が悪いと噛まれちゃうから気をつけて。頭の付け根部分を持って針に付ければ噛まれることは少ないから。それか、頭はハサミで切ってしまってもいいわね」  そう言いながら小さな針に、手際よく縫うように刺していく。 「それで、このままだと長いから、石ゴカイをちぎります」 「えっ? ちぎる?」 「そう、こうプチっとね」  遥さんがそう言いながら、指の爪を立てて石ゴカイをちぎった。う、うわあ……、ワイルド。あの、なんか切った先から、汁みたいなの滲み出てる……。 「長いとね、針がキスの口にかからないの。だから、針先から1~2センチほどの長さに調節した方が良いのよ」  私がちょっと引いているのもお構いなしに遥さんは説明を続ける。なんだか楽しそうに。これから始まる何かに、ワクワクしているような感じ。あの……、私はその逆でちょっとテンション下がっているんですけどね……。  でも、私のそんな気分は、立ち上がった遥さんの構えを見て急に変わった。  「あっ……」  2メートル近くある竿を両手で持ち、竿の先を後ろに構えた遥さん。凛々しい顔付き。目元は、サングラスをしていているから、確かなことは言えないけど、でも、真っ直ぐに、海を見つけていた。  釣り人が、海に向かって仕掛けを投げる。まさに、その瞬間に立ち会っていた。実際に見るのは、初めて。こんな近くで。  急に静かになる周囲。砂浜の心地よい波音が鼓膜をくすぐる。そんなことを感じた一時だった。遥さんが動いた。竿を握った両手が、竹刀を振るように振り下ろされる。後ろに構えていた竿先が、風を切る。涼し気な音を鳴らしながら、しなった竿先から勢いよく空へ放たれる仕掛け。 「すごっ……」  遠くへ。20メートルくらいだろうか。水しぶきを上げて、海の中へ仕掛けが投げ込まれた。  遥さんは、しばらく待つ。糸がするすると、海の中へ吸い込まれていく。タイミングを計っていたかのように、途中で糸の出方を止めた。そして、巻く。糸を回収する何かのハンドルを回して(のちにこれは、リールと知る)。少し巻いては、止める。それの繰り返し。遥さんの顔は、しきりに竿の先に向いていた。    なんだろ……、この……、何とも言えない……。   期待感。  「きたっ……!!」   遥さんの合図するような声に、私も大きく反応する。   竿先が、まるで生き物の尻尾みたいに、揺れた。   遥さんが竿を立てる。糸を巻いていく。巻いていく。  私の視線は、もう釘付けだった。だって、これはきっと、釣れている!! 「一投目できたわねっ! よっと!」 「うわあっ! キレイ」  海中から巻いて引き上げた。姿を現したのは、乳白色に近いキレイな色をした、魚。細身のシルエットがなんだか上品さを感じさせる。 「この魚……、えっと……」 「ふふっ、キスっていうのよ」 「キス……」  初めて見た魚。初めて釣り上げられた瞬間を見た魚。  キス。 「すごい……、こういうのが、釣れるんだ……」 「ふふっ、次は千佳ちゃんの番ね」 「えっ?」 「はい」  そう言って、私に竿を差し出した遥さん。私は、戸惑った。だって、素人の私が持って良いもんじゃないと……、思っちゃったから。でもね、遥さんが言ったの。 「一緒に、釣りしましょ」  その優しい声音と、微笑みが、私は―――、嬉しかった。 「……、はい」  小さな返事をして、私は差し出された竿を、握っていた。そして立ち上がる。胸の奥は、これから始まる釣りに、ワクワクした気持ちいっぱいだった。  釣りたい! キスをっ!!  私は、目の前に広がる海を、遥さんみたいに、真っ直ぐに見つめていた。
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