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十七・真相
その日宇都宮は非番だった。
前の晩、深夜に帰宅してそのまま布団に潜り、昼過ぎに目を覚ますと四日振りに風呂に入って溜まっていた垢を落とした。
洗面所で髪を乾かしながら、恋人である岡本結衣からのメールの内容を思い出していた。
「相談したいことがあるんだけど」
相談の内容についてはメールでは触れられていなかった。最近の二人についてあれこれと思い出してみたが相談するような事案は思い出せなかった。
「まさか結婚したいとか言うんじゃないだろうな」
お互いに結婚を意識していない訳ではなかった。ただ自分の中ではまだその時期ではないという気持ちがあって口に出さないだけだ。
もしも結婚の相談を持ちかけられたら面倒だな、と思いながらいつものジーンズにパーカーという普段と変わらない服装で待ち合わせの場所に向かった。
待ち合わせ場所のカフェに結衣の姿が見えた。窓際に座っていた彼女は宇都宮に気付くと嬉しそうに手を振った。
そんな彼女を見て小恥ずかしいと思うのと同時に、可愛らしいとも思った。
とびきりの美人と言うよりは愛嬌のある表情や仕草が魅力的で、こちらが変に気を遣うことのない彼女は、肉体を酷使し神経をすり減らすような日々を過ごしている彼にとってはとても居心地が良く、ギスギスとした心を癒やしてくれる存在だった。
ある時、彼女は宇都宮にマジックを披露したことがあった。
目の前でテーブルの上にあるコインを消してみせたり、部屋にある家具や小物を一瞬で移動してみせたりと言ったものだった。
宇都宮の頭の中ではちょっとした手品くらいにしか思わなかったが、どうやってもトリックが見破れなかった。
実はそれが超能力だと本人から聞かされ、何となく超能力の存在を信じるようになっていった。
「よかった。元気そうで」
結衣の隣に座るなり、彼女は宇都宮の顔を見ながら言った。
「久し振りに布団で寝れたからな」
「いつもご苦労様」
刑事という仕事柄、不規則な生活が続き、デートもままならなかった。最後に結衣と会ったのがいつだったのか思い出しながらブレンドコーヒーに口を付けた。
コーヒーショップを出た二人は、彼女が観たいと言っていたロードショーを観ると居酒屋で酒と食事を楽しんだ。
化粧室から戻ってきた結衣は少し表情を強張らせながら話を切り出した。
「相談事って言うのはね……私、ストーカーに狙われているみたいなの」
予想外の相談に宇都宮は一瞬耳を疑った。
「ストーカーだって?」
ストーカー事件は珍しい話ではないが、まさか結衣にもストーカーがいるとは思ってもいなかったので驚いた。ただ、誰にでも優しくする彼女の性格ならばそれを好意と受け止めて勘違いする奴は少なからずいるかも知れないと思った。
「結衣の思い違いと言うことはないのか? 相手に心当たりはあるのか?」
結衣は首を振った。
「わからない……でも」
そう言って彼女は自分のスマホを宇都宮に見せた。
SNSの画面にはいくつもの画像がアップされていた。それはどれも電車内や人混みの中で撮影されたものだった。
「何だよ、これ」
「よく見て。ここに映ってるのが私」
結衣は二本の指で画像を拡大して見せた。すると満員電車の車内で吊革に掴まっている結衣の顔がはっきりとわかった。
駅の改札を出る瞬間であったり、信号待ちをしている時や会社の同僚と表へランチに出かけているときの写真もあった。
「こういうのが毎日のように送られてくるの」
これはほぼ間違いなくストーカー行為だ。宇都宮の酔いがみるみる覚めていった。
「アカウント変えたり、ブロックしたのか?」
「うん、それもやってみた。けど、すぐに新しいアカウントを見つけ出してまた送ってくるから、最近はもう疲れて諦めることにしたの」
「いつからこんなことされてるんだ」
結衣は少し考えてから口を開いた。
「もう半年になるかしら」
「馬鹿野郎」
宇都宮は身を乗り出した。
「なんでもっと早く言わなかった」
彼女は寂しそうな顔で、だって、と呟いた。
「あなたはあの頃すごく忙しそうだったから言えなかったの」
半年前は連続殺人事件の犯人を絞り込んで連日聞き込みや張り込みを続けていた頃だった。この頃は結衣に会うどころか自宅にもなかなか帰れずにいた。
「#9110(ストーカー相談窓口)には電話したのか?」
結衣は黙ってうなずいた。
「でも、この写真だけじゃストーカー被害にはならないって。迷惑行為とか暴力行為とか直接被害がないと動けないって言われたわ」
それまでは窓口の対応なんてそう言うものだろうと軽く思っていたが、いざ実際に自分の恋人が同じような目に遭っているとわかると、事務的で通り一遍な対応には批判的な感情を抱かずにはいられなかった。
ひとまず店を出て、彼女を家まで送り届けることにした。ついでに彼女の部屋の中も見ておきたいと思った。すでにストーカーが彼女の家の中に侵入したかも知れない。その証拠なり形跡を確かめたかった。
「部屋の鍵は大家に言ってすぐに換えてもらうんだ」
「うん。わかった」
結衣の部屋を一通り調べてみたが、これと言って怪しいものは見つからなかった。
侵入した形跡は見られないが、恐らくストーカーはすでにここも突き止めていることだろう。
「なるべく早い時期に引っ越した方がいい」
「うん」
結衣は不安げな顔で宇都宮に抱きついてきた。
「……怖い……」
しがみつくようにぎゅっと腕を回す彼女を抱きしめた。
彼女が寂しそうな目で彼を見上げた。
宇都宮はキスをしながら、この前キスをしたのがいつ頃だったのかもう思い出せないくらい前だったような気がした。
身体を預ける彼女をベッドへと誘い、一枚ずつ服を脱がせた。露わになる白い肌に彼の本能がむき出しになった。
荒々しく自分の服を脱ぎ、貪るように彼女の肌に唇を這わせた。時々漏れる彼女の吐息に更に高ぶりを覚えながら彼女に覆い被さり、白いシーツの海に波模様を描きながら全身を愛撫し、そして彼女の中へ自分の欲望を吐き出した。
しばらく二人だけの時間を過ごしてから彼女の家を出た。
すでに終電が気になる時間になっていた宇都宮は少し急ぎ足で駅へ向かった。
早足で歩きながら、結衣への忠告を思い出していた。
ちゃんと戸締まりをすること、呼び鈴が鳴ってもすぐには出ないこと、必ず覗き穴で確認してからドアを開けること、アドレス帳にない電話番号には絶対に出ないこと……。
「あっ」
パーカーのポケットに入れていたはずのスマホがないことに気付いた。恐らく結衣の部屋に置き忘れてしまったらしい。
彼女の家と駅のちょうど中間くらいまで来たところで、彼は踵を返した。今から彼女の家に戻れば終電に間に合わなくなるのは確実だった。
宇都宮は終電を諦め、タクシーで帰る覚悟を決めて彼女の家へ向かった。
二階にある彼女の部屋にはまだ灯りが点いていた。
宇都宮は呼び鈴を押しながら、彼女が躊躇なく玄関を開けようとしたら叱ってやろうと思っていた。
しかし、なかなか彼女が玄関口にやって来る気配がなかった。
もう一度呼び鈴を鳴らしてみた。
「シャワーでも浴びてるのか」
今度は呼び鈴を押してからドアに向かって「結衣」と声をかけてみた。
すると、しばらく立ってからカチャリと鍵の開く音がした。
宇都宮は自分の言いつけを守ってホイホイ玄関を開けなかった彼女を褒めてやろうと思いながら玄関のドアを開けた。
ところが、目の前に現れた彼女の姿を見て思わず息を呑んだ。
そこには全身血だらけの彼女が立っていた。
「何があったんだ!?」
彼女のうつろな目は焦点が定まっていなかった。
「大丈夫なのか?」
立ち尽くす彼女の全身をくまなく調べてみたが、彼女には傷一つ見つからなかった。
「じゃあ、誰の血なんだ?」
彼女の背後に見える部屋の様子がさっきまで自分がいた時とは違うことに気付いた。
宇都宮は事件現場に赴いた時に感じる特有の胸騒ぎを覚えながら部屋の奥、彼女の寝室へと進んでいった。
彼女の寝室はベッドも天井も壁も床も、スプレーで吹き付けたように真っ赤に染まっていた。
宇都宮は血塗られた部屋を見ながら、落ち着けと自分に言い聞かせた。しかし部屋のあちこちに無造作に転がる肉片を目にして冷静でいられるはずもなかった。
あるものは壁に、あるものは天井に、そして床に。それらはこびりつくように付着しており、まるで身体が爆発した衝撃でこびり付いたようだった。
数多くの殺人現場を見てきた宇都宮でも、目の前の光景は異様に映った。
割れた頭部を見つけた時、宇都宮は堪らず手で口を押さえた。そして胃の中のものが逆流してくるのを堪えながら、洗面所へ駆け込んだ。
化粧台に顔を突っ込み、絞り上げるような声で嘔吐(えず)いた。しかし胃からは何も出てこなかった。
しばらくしてようやく胃のむかつきが治まった宇都宮は鏡越しに映る結衣に尋ねた。
「結衣、一体ここで何があったんだ?」
彼女は返事もせず、血で汚れた床に目を落としていた。
「結衣」
堪らず彼女の肩を揺すった。すると息を吹き返したように彼女はゆっくりと口を開いた。
「あいつがストーカーだったの……」
「えっ?」
「あなたが家を出てからすぐにあいつから連絡があったの。『お前達のセックスを隠し撮りした。今からネットにばらまく』って。その後すぐにあいつがうちに来た……」
「何だって?」
「あいつから動画データを見せられてびっくりしたわ。あいつは確かに私の部屋を盗み撮りしていた……これをネットにばらまくと言って私を脅してきた……『それが嫌なら俺の女になれ』って……」
今さらながら自分の迂闊さを呪った。もっと入念に部屋の中を調べるべきだった。
奴はすでに合鍵も作り、彼女のいない時を見計らって侵入し、カメラを仕込んでいたのだ。
すべてが後手後手に回っていたことを後悔した。
ただ宇都宮の中でまだ繋がらない点があった。
この部屋に散乱した血や肉片は恐らくストーカー自身のものであることは間違いないが、では一体どうしてこんな凄惨な状況になったのか。
「結衣……これって……」
彼女は弱々しく首を振った。
「わからない……あいつが私を押し倒して、私は必死に抵抗して、気が付いたらこんなことになっていた……本当に覚えてないの……」
結衣の目からポロポロと涙がこぼれた。その涙は頬を伝わりながら次第に赤く染まり、白い線を描いた。
「……でも、きっと私なんだわ……私が殺した……」
宇都宮は自ら警察へ連絡し、間もなく結衣の身柄は留置所に送られた。
結衣のスマホに残されたSNSやメールを追跡したところ、ストーカーの身元が判明した。植田徹という無職の男だった。
部屋に残された血液や肉片はDNA鑑定の結果、植田のものと一致した。
彼女の供述一つ一つには整合性があり、信憑性に疑いはないものと判断されたが、彼女が超能力で人間一人を木っ端微塵に吹き飛ばすという行為自体が現実味に欠けており、彼女の犯行を立証させることが困難だとして捜査員達を悩ませた。
結局、起訴できぬまま留置期限を迎え、結衣は釈放された。
宇都宮が留置所へ彼女を迎えに行った時にはすでに彼女の姿はなかった。
入れ違いになってしまったのかと思い彼女に電話をしてみたが一向に繋がらなかった。
自宅に行っても彼女の部屋には鍵がかかっていて、夜になっても帰っては来なかった。
彼女が行方不明になってから数日後、栃木県の山中で女性と思われるバラバラ死体が発見された。
遺体は四方に飛び散り、ほとんど原形を留めてはいなかった。
その後、DNA鑑定で身元は岡本結衣であることが判明した。
国道を走行中だった宇都宮の車に無線が入った。
「N市二丁目二番の倉庫にて、天井に張り付いた被害者(マルガイ)を発見、近くを走る捜査員は至急現場(げんじよう)へ向かわれたし。なお、現場には小学生と思われる女子が一名保護されており、怪我はない模様……」
たまたま近くにいた宇都宮はこれから現場に向かうと無線で告げ、ハンドルを握り直した。
「少女とマルガイか……」
ぼそっと独り言を言いながら、二人の関係性や現場の性質などを材料にこの事件の真相について想像してみた。
本来、そう言った先入観を持って現場を見てはいけないと先輩刑事から教えられてきたのだが、宇都宮としてはあらゆるケースを想定するためにいくつもの仮説を立てるのが癖になっていた。
ここまでの情報からだと、恐らく二名以上で誘拐かいたずら目的で少女を倉庫へ連れて行き、そこで何らかのトラブルが発生して仲間割れを起こし、何者かがマルガイを殺した、と見るのが自然だが、問題はマルガイの状況だった。
「マルガイは天井に張り付いていた?」
張り付くという言葉に違和感を抱いた。天井に張り付くとはどういうことか?
とにかく一刻も早く現場に行ってこの目で状況を確かめたかった。自然とアクセルを踏み込む足にも力が入った。
「こんな日に小金井は非番か」
宇都宮はチッと舌打ちをした。
現場の確認や事件の捜査は大抵二人一組でおこなう。最近パートナーとなった小金井は経験も浅くまだ心許ない部分もあるが、ガッツと正義感だけは同期の刑事の中でも人一倍強かった。その心意気を頼もしいと思う反面、やや前のめり気味に物事を進めようとして少々おぼつかない面もあるが憎めない男だった。
この事件で彼にも少し経験を積ませてやろう、と密かに思いながら宇都宮はハンドルを切った。
現場には所轄のパトカーがすでに止まっていて、後部座席には身体を小さく丸めた少女が二人と、保護者と思われる女性が座っていた。
宇都宮はまず現場の状況を確認することにした。
倉庫の入り口で所轄の警官が一人、懐中電灯で中をを照らしていた。
「ご苦労様です」
と宇都宮が身分証を見せながら挨拶すると、その警官は背筋を伸ばして律儀に敬礼した。
「マルガイが天井に?」
「はい。さっき鑑識の方がそのように仰ってまして」
警官は正装ながら明らかに宇都宮よりも立派な体格だとわかった。恐らく学生時代に柔道やアマレスで鍛えていたのだろうか。
倉庫の中へ踏み込もうとしたとき、警官から声をかけられた。
「足許にお気を付け下さい」
鑑識員が置いた番号札とチョークの印が彼らの侵入を拒んでいた。
入り口から天井を見つめてみたが被害者らしき人物を見ることはできなかった。
「すでに鑑識が遺体を回収してしまったか」
鑑識による写真撮影とサンプルの採取が済むまでの間、現場にいた少女に事情を聞こうとパトカーの方に戻った。
全身をガタガタと震わせる少女をもう一人の少女が両腕で抱きしめていた。
宇都宮はまず少女達の保護者と思われる女性に声をかけた。
「あのう、すいません。倉庫にいたのはそちらのお嬢ちゃんでしょうか」
女性は振り返えると「はい」と短く答えた。
「あの、失礼ですが、お母さん?」
「いえ、違います。私は児童福祉施設の職員です。この子達はそこの子達なんです」
親子にしては何となくよそよそしい雰囲気を感じていた宇都宮は、女性の言葉を聞いて納得した。
「ちょっと本人と話がしたいのですが、よろしいでしょうか」
わかりました、と言って彼女は震える少女の肩にそっと手を置いた。
「愛依ちゃん、刑事さんがお話ししたいんだって。大丈夫? お話しできる?」
愛依は小さくうなずいた。もう一人の少女は黙ったまま宇都宮を見た。
相手に威圧感を与えぬよう、街で道を尋ねる時のような雰囲気で、少しだけ作り笑顔も見せながら話しかけた。
「愛依ちゃんって言うの?」
愛依は黙ってうなずいた。
「愛依ちゃんは倉庫にいたのかな?」
もう一度うなずいた。
「そこで何があったのか教えてくれるかな」
愛依は黙ったまま、凍り付いてしまったかのようにじっと身を固くした。
「だいすけ先生と知らないおじさんが愛依を倉庫に連れて行ったの。そしてやらしいことしようとして、おじさん達が飛んでいっちゃったの。ね、愛依ちゃん」
愛依の代わりにもう一人の少女が話した。
宇都宮は女性に尋ねた。
「あのお嬢ちゃんも現場には一緒にいたのですか?」
「いえ……舞依は私達と一緒に施設の行事に出掛けていて愛依とは別々だったのですが、その帰り道で突然『愛依ちゃんが呼んでる』と言って騒ぎ出して。それで他の子らを施設に置いてから二人でここまで来たんです。私達も初めて来る場所でしたけど、舞依が道順を教えてくれて……」
最初、彼女が何と言っているのか理解に苦しんだ。舞依という女の子が愛依の声を聞いて大人達を現場に導いたというのか?
「二人は施設でもとても仲良しで……何だか、以心伝心というんでしょうか。お互いに相手の気持ちがわかるみたいで」
そんなことがあるものか、どうせ子供の妄言か何かだろう、と心の奥で思いながら、先ほど舞依が「おじさん達」と言ったのを思い出していた。
現場で発見された遺体は一人だ。だとすると、他にも遺体があるというのか。残りの遺体はどこへ行った?
その後の連絡で、現場近くの高圧鉄塔に絡まるようにしてぶら下がる男性の遺体と、ビルの避雷針に突き刺さった男性の遺体がそれぞれ発見された。
それらの遺体は、現場に残された乗用車から検出された毛髪や遺留品から採取したDNAと一致し、そのうちの一人が小金井のものであると後日、鑑識結果が出た。
愛衣の洋服等からも三人のDNAが検出されたことから、三人とも現場で彼女と接触していたことが証明されたことになる。
被害者と少女以外の人物が車以外の手段で現場にやってきて三人を殺害し、死体を遺棄した可能性もあるが、現場の状況からはその可能性は極めて低かった。
では、誰が彼らを殺害したのか。そしてどうやってあんな所まで死体を運んだのか。
これらの犯行を愛衣一人が行うのは不可能だ。
この事件は第三者による犯行としか考えられないが、容疑者を特定するだけの証拠が全く見当たらなかった。
彼は寝食も忘れて捜査に没頭した。何度も現場に足を運び、何度も何度も現場周辺で聞き込みをおこなった。
小金井が殺されたというショックと憤りは宇都宮の理性を失わせ、正常な判断を困難にさせた。
結果、彼は過労で倒れ、病院へ運ばれた。
一週間入院し、退院後に現場へ戻ってきた時、彼は捜査から外された。
別の事件を担当することとなり、新人の刑事が彼のパートナーとなった。
小金井よりも華奢な彼は外見こそ少々頼りなくは見えるが、どんなときでも沈着冷静で、意外と肝が据わった男だった。
もういつまでも小金井の死を悲しんでばかりもいられなかった。
今回で最後にするつもりで、宇都宮は倉庫に立ち寄った。
現場となった倉庫の中で当時の状況を思い出しながら、本当に三人はここから遠くへ飛ばされたのかを推理してみた。
一人は天井にへばり付いていたのだから間違いなくこの中にいた。では、残る二人についてはどうだったのか。確かに毛髪や体液等の遺留物がこの倉庫から発見されていることから、ここにいたことは間違いないのかも知れないが、果たしてここから彼らは飛ばされていったというのだろうか。
飛ばされたにしては天井や壁に穴は空いていなかった。と言うことは一度外に出てから飛ばされていった、あるいはここから連れ出されたのか。
そう考えれば考えるほどそれらの行動が不自然で、納得がいかなかった。
「? 何だ……」
突然全身に悪寒が走り、そして猛烈な吐き気に襲われた。
宇都宮は倉庫を飛び出し、堪らず草むらに嘔吐した。
これと似たような異質な感覚を以前にも感じたのを思い出して、思わず身震いをした。
「これって、まさか、結衣の時と同じってことか……ってことは、超能力……?」
結局事件は新たな手がかりを見つけられないまま迷宮入りとなった。
城南高校から警察に連絡が入ったのは、宇都宮が出社してすぐのことだった。
「俺が、ちょっと行って様子見てくるわ」
城南高校というキーワードを耳にして、思わず名乗り出た。その時はまだ軽い気持ちだった。
「確か、蓮田や白岡がいる学校だよな」
特別な気持ちはなかったが、顔見知りが通っている学校と言うこともあって、何とかなく行ってみたくなった。
彼女達とは学校で殺人事件が起きた時以来だったか。いや、駅で老人を助けた時以来だったか。
一年前に起きた殺人事件の時、蓮田と白岡は超能力を使って犯人を捜し出すと豪語していた。結局犯人を特定するまでには至らなかったが、それでも事件解決の糸口になるようなことは言い当てていたと言い張っていた。
宇都宮にすれば彼女達のそれは超能力と言うにはおこがましいほど陳腐だった。
学校に到着した彼はまず校長室へ赴いた。そして投函された脅迫状に目を通した後で全校生徒の名簿に目を通した。
今回の事件は生徒が起こした愉快犯である可能性が高いと直感した。その理由に、犯行声明の文字に新聞の切り抜きを使うといった古典的な手法を用いていることが挙げられた。
最近はこんな手の込んだことはしない。手軽に市販のプリンターから印刷したものを使えばいい。更に言えば学校にメールを送るだけで事足りる。
一文字一文字新聞紙から切り抜き、糊で貼り付け、ポストに投函するという多くの行程を踏まなければいけないというのは犯人にとってリスクとなる。指紋や皮脂が便せんや封筒に付着する可能性が高くなってしまうからだ。それに郵便を使えばどの辺りでポストに投函されたかで犯人の行動範囲を絞り込むことができる。
恐らく、古い刑事ドラマか映画のシーンを見て感化された犯人が面白半分で脅迫状を作ったのだろう。
不安げな顔でこちらを見る校長とは裏腹に宇都宮は案外と冷静だった。
取り敢えず数日は厳戒体制を敷くことにしたが、案の定、それ以降学校では特に変わったことは起こらなかった。
最初から事件性がないと踏んでいた宇都宮だったが、それでも何度か学校へ足を運んでいたのには理由があった。
学校から名簿を見せてもらった際に、西那須野愛依と舞依の名前を見つけたからだった。
十年前に迷宮入りとなった事件に関わっていた愛依と舞依にこんな形でまた会えるとは思ってもいなかった。
もちろん最初は半信半疑だった。年齢的には一致するものの苗字が当時のとは異なっていたために本人だと確信するまでには至らなかった。だからどうしても確かめたいと思った。
と同時に、もう忘れかけようとしていた当時の陰惨な記憶が蘇った。
柔和な顔をした愛依が、自分の意志ではなかったかも知れないにせよ大の大人三人を死に至らしめたのかと思うと、宇都宮の中に怒りとも恐れとも言えない負の感情が次第に沸き上がるのを抑えることができなかった。
宇都宮は第二の脅迫状をを自ら学校へ送った。そうすることで予告犯による犯行だと思わせる意図があった。
そして脅迫事件の件で聞きたいことがあると言って愛依を呼び出し、車の中で三人の写真を見せた。
愛依は幼かった頃の記憶でもはっきりと三人の顔を憶えていた。そして写真を見るとガクガクと身体を震わせ、とても狼狽していた。
愛依の怯えた表情があの時の結衣とオーバーラップした。宇都宮はあの時三人を殺したのは愛依だと確信した。
宇都宮はポケットに隠し持っていたナイフで愛依の腹を刺した。それは死んだ小金井達の代わりに復讐を果たすためではなかった。
愛依は自分の顔を知っている。あの時の犯人が愛依だとわかった途端、愛依は口封じのために自分を殺すに違いない。
そんな強迫観念が彼を突き動かしていた。
結衣に殺されてバラバラになったストーカー男の無残な姿が自分の姿とダブった。
「お前なんかに殺されたくねぇ……」
ナイフを持つ手に力を込めた。
抵抗する愛依の細い手が宇都宮の手首を掴むと同時に、ミリミリと骨のきしむ音がして激痛が脳天を貫いた。
こんな華奢な少女のどこにそんな力があるのだ。これも超能力なのか。
宇都宮は自分が殺される事への恐怖を感じながら、痛みで感覚を失った右手をさらに彼女の腹部へ押し込んだ。
彼の腕から力の抜けた細い手がほどけた。
そして、そのまま彼女の身体はシートの上に崩れ落ちた。
私はその時夢を見ていたようなフワフワとした感覚だった。
しかし、両目から止めどなくこぼれ落ちる涙に、今自分が見ていたのは夢なんかではないのだと自覚した。
紛れもない宇都宮の記憶。つまりは彼が見た真実。
受け入れがたいが受け入れざるを得ない現実。
今私は悲しむべきなのか。怒るべきなのか。それともすべてを許すべきなのか。
思考も感情も停止してしまった自分の目の前で、何か塊がもぞもぞと動いている。
私はその場に座り込んだまま、ただぼんやりとその動きを目で追いかけていた。
宇都宮が地面に落ちている拳銃の方に向かって芋虫のように這いつくばっている。
ようやく拳銃に手が届くと、それを左手で掴み、私の方に銃口を向けた。
宇都宮が私に拳銃を向けて撃とうとしている、という客観的な事実だけが私の中で認識されているだけで、恐怖も怒りもまったくなかった。
あの銃口からは弾は出ないとわかっていた。もちろん何の根拠もない。私が出ないと念じ、それを信じているだけだ。
痛みで照準が定まらないのか、それとも再び暴発するのを恐れたのか、宇都宮は拳銃を放り投げ、今度はポケットからバタフライナイフを取り出した。
薄暗がりの中でむき出しになった刃先が私を睨んだ。
ナイフの刃を見て私は愛依と宇都宮の二人から見た記憶を思い出した。
暗い車内で宇都宮の握るナイフ。
愛依のお腹をえぐるように刺さるナイフ。
全身の血液がサァーッと一気に流れ出した。
宇都宮は手にしたナイフで私を殺そうとしている。あんなに鋭い刃物で刺されたら死ぬほど痛いに違いない。いや、死んでしまうかも知れない。
そもそもどうして私は宇都宮に殺されなければいけないんだ?
私が何か悪い事でもしたというのか?
嫌だ。まだ死にたくない。
何としてもこの危機的状況を回避しなければ。
どうやって?
気が付くと、宇都宮は身を屈め、手にしたナイフに自らの体重を預けながら私に襲いかかっていた。
私には、この距離とスピードで迫る凶刃をかわせる自信がなかった。
「もうやめて!」
私の絶叫が倉庫内に反響した。
と、同時に目の前から宇都宮の姿が消えた。
(つづく)
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