第一話

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第一話

 春は嫌いだ。僕は花粉症だから。  音楽も嫌いだ。努力が報われないから。  それなのに、どうして吹奏楽を続けているのかと聞かれたら、僕にも理由は分からなくて。頑張ればいつかは上達するだろうからとか、楽器を吹くのは楽しいからとか、そんな陳腐な理由かもしれない。でも、もう、すっぱりやめてしまえるほどの元気も勇気もなくて、ただ惰性で続けているだけ、それが一番近いかもしれない。  こうして合奏の後に残って個人練習していても、昨日と何か変わったかも自分ではわからない。上手くなったのか、下手になったのか、それすらも。音程は合うようになった? リズムは正しく吹けるようになった? メトロノームから遅れてない? 気にしなければいけないことはもっとたくさんあるのに、言葉が頭の中をぐるぐる回って、僕はパニックになりかけていた。 「木島君、まだそこの連符できないの?」 「新入生の方が上手いんじゃない?」 「そこ、音程合わないなら吹かないで」 「今日も個人練してから帰るの?」  どうせ無駄なのに、とでも言いたげなパートリーダーの表情と視線が、頭から消えない。  僕だって、練習はしてるし、上手くなりたいと思ってるよ。でも、うまくいかないんだ。もう、どうしたらいいかわからないんだよ。  その時、僕の後ろでガタンと音がした。振り向くと、一人の男子生徒が机から顔を上げて、伸びをしていた。いつも練習をする時は無人の教室を借りていたのだけれど、今日は残っている人がいたみたいだ。 「あっ、すみません、今すぐ退くので……」  僕は楽器ケースのふたを開けて、急いで片付けを始めようとする。 「……何で?」  彼はまだ少し眠そうな目を丸くして言った。ここは三年生の教室だから、おそらく先輩だろう。 「他に使っている人がいる場合は、吹奏楽部は使ってはいけないことになってるので……。気づかずに使ってて、申し訳ないです」 「寝てただけだし、別にいいよ。綺麗な音だったし」 「綺麗な音……?」 「うん」  先輩は少し不思議そうな顔で答えた。  そんなこと言われたのは、何年ぶりだろう。もしかしたら、楽器を吹きはじめてすぐの時に、お世辞で言われて以来だったかもしれない。 「綺麗な音だね、君、才能あるんじゃない?」  体験入部でそう言われて、幸せなことにお世辞と気づかなかった僕は、吹奏楽を始めたのだ。  でも、部活に入ってすぐに、現実を知った。ずっと僕のそばには自分より上手い同級生も後輩もたくさんいたし、頑張っても追いつくことはできなかった。褒められるような技術も音も得られなかった。――僕は人数合わせのためにいるだけで、僕の音をちゃんと聴いてくれる人なんていないと思っていた。  それなのに。ちゃんと僕を見てくれた人がいた、僕の音を聴いてくれた。  心の中に何か、温かいものが広がる。大袈裟だけれど、今の僕だけでなく、過去の自分も救われたような――そんな気がした。 「えっ、ちょっと……」  先輩は慌てた様子で、ハンカチをポケットから出して僕に差し出した。 「――ほら」 「え……」 「涙、拭きなよ」  僕はそう言われて、はじめて自分が泣いていることに気がついた。頬を伝った涙が、ぽたりと机に落ちた。 「ありがとう、ございます……」 ハンカチを受け取って、目元を拭う。紺色のハンカチは、先輩のぬくもりが伝わったのか少し温かった。 「……ごめん」 「……何がですか?」 「俺のせいでしょ、泣いてるの。何か気に障ることを言ったなら悪いなって」  先輩が気まずそうに、顔をそらす。いきなり泣き出して困らせたのは僕なのにわざわざ謝ってくれるなんて、すごく優しい人なんだと思う。正直、とても申し訳ない。 「違います、先輩が悪いんじゃないんです。……自分の音を褒められたことが今まで全然なかったので、なんか、感極まっちゃったっていうか……。すみません……」 「落ち着くまで待ってるから、好きなだけ泣いていいよ。俺は暇だから。  ――そっか、頑張っても気づいてもらえないのは、つらいよな……」  先輩は誰に聞かせるふうでもなく、ぽつりとつぶやいた。透き通っていて、でも少しさみしげな声だった。  罪悪感を覚えながらも、しばらく、僕は黙って涙を拭いていた。先輩も、何も言わなかった。静寂だけが、僕たちを見守っていた。  僕は涙の止まった目をこすると、顔を上げた。 「すみません、ご迷惑をおかけしました……」 「別に俺は大丈夫だから、気にしないで。もう、平気?」  小さい子どもに話しかける時のような、優しくて柔らかな声色で彼は言った。 「……はい。ハンカチも、ありがとうございました。今度洗って返しますね。――先輩のお名前を聞いてもいいですか」 「……穂積。穂積千尋」 「穂積、先輩」 「うん」  先輩はふっと微笑んだ。凪いだ海みたいに穏やかで、どこか儚げな笑みだった。 「……またね」  先輩はリュックサックを背負うと、教室を出ていった。  五月の夕方の教室は少し肌寒くて、でも僕の胸には温かな火が灯っていた。
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