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第二話
廊下の窓からは、五月らしい鋭さを持った陽射しが差し込んでいた。少し汗ばんだ身体に心地よい風が吹いてくる。
五時間目の授業が終わってすぐ、僕は借りたハンカチを返すために、先輩の教室へと向かっていた。なんだか一昨日の出来事はどこかふわふわとしていて、実感がなかった。自分に都合のいい夢のようにも思える。でも、このハンカチが手元にあることが、あれが現実にあったことなのだという何よりの証拠だった。
――大丈夫、僕を見てくれた人は、認めてくれた人は、本当にいるんだ。
そのことは何よりも尊くて、大切にしまっておきたい宝物のようだった。
連絡通路に差し掛かると、前方から歩いてくる人影が見えた。
「あ」
日に透けるような金色がかった髪に、猫のようなミステリアスな瞳。この前は暗がりではっきりとは見えなかったけれど、でもわかる。こちらに向かっているのは、穂積千尋先輩その人だった。
「穂積先輩」
声をかけると、彼は視線をこちらに寄越した。僕は先輩の方に小走りで向かう。
「ああ、この前の」
「ちょうど先輩の教室に行くところだったんです。一昨日はありがとうございました。これ、家で洗ってきたので」
僕がラッピング用の袋に入れたハンカチを差し出すと、彼は色の薄い目をまんまるにした。
「えっマジで洗って返してくれるとは思わなかった……。ありがと」
「いえいえ、本当に助かったので……」
「君、今何飲みたい?」
そう言いながら、先輩はすぐ近くにあった自動販売機の方に歩いていった。
「えっ」
「好きなやつ買ってあげる。緑茶、ジュース、コーヒー、色々あるけど」
「そんな、奢ってもらう理由なんてありませんし、むしろ僕が先輩に差し上げるべき立場というか……」
「――差し入れみたいなものかな。」
「差し入れ?」
「俺の勝手な自己満足みたいなものだからさ、気にせず受け取ってよ」
先輩は僕の方を向いてにこりと微笑んだ。さっきまではクールな印象だったけれど、微笑うと柔らかい雰囲気になるな、と思った。僕は部活で女子と関わることも多いけれど、知っているどの子よりも先輩は綺麗だと思った。
「は、はい……」
「やった。で、どれがいい?」
「じゃあ、麦茶で……」
「オッケー」
先輩が自動販売機にお金を入れてボタンを押すと、ゴトンと音をたててペットボトルが落ちてきた。彼はそれを取ると、僕に手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……!」
「どういたしまして」
先輩は僕を見ると、満足げに頷いた。
「じゃあ、俺は職員室の方に用があるから。――今日も部活?」
「はい」
「頑張って……って言おうと思ったけど、君はもう頑張ってるよね。――毎日偉いね、無理しないで」
先輩はそう言うと、職員棟の方に向かった。肩近くまで伸びている髪が、彼の動きに合わせて金色の糸のようにサラサラと揺れる。
「あ」
先輩は、不意に何かを思い出したかのように立ち止まって、もう一度こちらに戻ってきた。
「君、名前は?」
「えっ」
もう名前を名乗ったつもりでいたから、僕は戸惑った。こんな大切なことを忘れるなんて。
「木島、木島遥です」
「木島君ね。了解、ありがとう」
「あ、あの」
僕は思わず先輩の腕を掴んだ。自分でも、自分の行動にびっくりしてしまった。先輩も少し怪訝そうな顔をしている。
「何?」
「……また、会えますか?」
本当はこんなこと、訊くつもりはなかった。でも、言葉が口から勝手に出てきて、止められなかったのだ。
「うん。――また教室に来てくれたら、きっと」
先輩はそう言ってゆったりと微笑むと、骨張った手で僕の頭をぽんと撫でる。まるで、小さな子どもをあやすように。そして、再び背を向けて歩き出した。
先輩の手の優しい感触と熱がなかなか消えなくて、僕は一歩も動けずに、彼が見えなくなるまで見つめていた。
キーンコーンカーンコーン。
その時、スピーカーから鐘の音が鳴り響いた。四時になったことを告げるチャイムだ。
もうすぐ、部活が始まる時間だ、行かなくちゃ。
「差し入れ」のおかげか、不思議と心は軽かった。僕は荷物を取りに行くために、教室の方へと駆け出した。
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